カニバルとラブの狭間で

口に含んだ瞬間、感じた強い吐き気を。
僕は懸命に押し殺した。
ガリ、ゴクン、ガリ、ゴクン…
できるだけ無機質に、機械的に、咀嚼していく。
定期的に水で流し込みながら。
そのせいで僕の席だけ、卓上水の減りは早かった。

「近藤君?顔色が悪いけど、大丈夫?」
話しかけられた方を向くと、心配そうに首を傾げる姿が目に入った。
その首筋を見た瞬間、ゴクリ、と喉がなりかけたのを気付かれないように、さり気無く誤魔化した。
「大丈夫、ちょっと考え事をしててね」
「考え事?」
「ニンゲンの定義は何か、ってね」
「? 人間は人間でしょ?」
「そうなんだけどね」
肩をすくめると、おかしな事を言うのね、と、彼女はコロコロと笑った。

苦笑して、また少し口に運ぶと、今度は脇腹から周辺に向かって、ゾワゾワと悪寒が走った。
思わず顔を顰めると、また、近藤君?と心配そうに言われた。
それを聞いて、つい、コンドーム君なんてあだ名を付けられなくて本当に良かったなあ…なんて、バカな事を思ってしまった。
そんなあだ名を付けるような人は、普通、いないだろうが、僕の周りにいる人達ときたら、そういうバカなあだ名を喜んでつけそうな奴らばかりだったから、ないとは言い切れない。
「近藤君ってば」
…いけない。すぐに思考が傍にずれてしまうのは、僕の悪い癖だ。
ええと、だけど僕は今、誰と何を話してたんだっけ?
記憶を急いで辿る。目の前には見知った顔。
ああ、そうだ。この子は紗希、僕の幼馴染だ。
幼馴染のくせに、未だに僕の事を苗字で呼ぶ、変わった子。でも、悪い子じゃない。
…そう、悪い子じゃないんだ。
「ごめんごめん、紗希」
「もう。本当に大丈夫なの?」
「うん、ごめんね」
「大丈夫なら良いんだけど。家庭教師してくれる約束、今日だったでしょ?来れそうなの?」
…そういえば、彼女に家庭教師紛いの事をする約束をしてたのは今日だった。
一瞬悩んで、答えを出す。
「悪いんだけど、延期させて貰えるかな?」
「やっぱり体調悪いの?」
「いや。今日は狼にならない自信がない」
「バカ、何言ってんの」
「あはは」
軽く笑って、流す。
紗希がヒラヒラと手を振って去っていくのを、僕も努めて笑顔で見送った。
彼女の、スカートから溢れた足や、そのうなじなどには、視線を向けないようにしながら。
ホントだよ、と、小さく呟いたそれは、小さく空に溶けた。

ニンゲン。
その定義は、何だろう?
言葉を話して、二本足で歩いて、手を使えて…
じゃあ、言葉をしゃべれなかったら?理解できなかったら?
手が使えなかったら?足で立てなかったら?
だけど、そうだ。
人間を食べない、って事だ。
人間を食べないなら、人間だ。
僕は。
人間で、いたい。

紗希を初めて綺麗だと思ったのは、いつだっただろう?
幼馴染という生き物から、紗希という生き物として、意識し始めたのは?
欲しい、と、思い始めたのは?
だけど、健康的な手足に、時折見せる表情に、思ってたより女っぽかった所に、『そそられる』とはこういう事だろうか、と、思い始めてから、違和感を感じるまでには、そう掛からなかった。
そして。
違和感を感じる程に、食欲が減っていったのも。
気付くまでには、そう、掛からなかった。

ご飯が美味しくない。何を食べてもそうだ。
食欲がないのかと思ったが、そうじゃない。
飢餓感は、むしろどんどん増しているのだ。
嗚呼。
僕は、人間を辞める、何歩前?

紗希。
思い出した瞬間、ゾクリと走った。
嫌悪感じゃない。むしろ快感に近いそれ。
これがただの快感なら良かったのに。
発情して、欲情して、思い出すだけで興奮してしまうような、青少年宜しく、そんな劣情なら良かったのに。
だけど、違う。
違うと解ってしまった。
だから極力、会う日を減らして、距離を置いて。
いつかこれが治れば良いと、淡い期待を抱いて。
なんとか宥めようとしているのに。

また一口、食べる。
食べろ、食べろ、食べろ。
収れ、収れ、収れ。
腹が空いてるなら、幾らでも食ってやるから。
だからそれだけは…
ヤメテク、レ……

誰に相談できるだろう?こんな事を。
きっと誰にも信じてもらえないか、病院行きだ。
いや、もういっそ病院に入ってしまえば、楽になれるのかもしれない。
でもそうすると、紗希には二度と会えないだろう。
それは、いやだ。
ねえ、紗希。
僕が今、こんな事を考えてるって知ったら、君はどう思うんだろね?
どんな目で…僕を見るんだろね?
ねえ、紗希……

重い足取りで。
学食を後に、した。




数日間、学校をサボって家で過ごしていた。
食べても食べても、太るどころか、むしろ痩せて行くのは酷く皮肉だった。
もう僕の身体は、マトモな食事は餌として認識できていないんだろうか?
身体が重い。 思考も泥のようで上手く纏まらない。
考えたい事、考えたくない事、湧き水みたいに、とめどなく、ああ、けれど。

無限ループは、チャイムの音に、掻き消された。
ノロノロと出てみると、案の定というべきなのだろうか、紗希だった。
「急にごめんね、心配で来ちゃった」
ありがとう、でもホントに体調悪くて…と、やんわり断るが、紗希は、だから来たんだよ、と、帰る気配は無かった。
諦めて、ドアを開ける。
「少し…痩せたね。ちゃんと食べてる?」
食べてるよ、と答える。
が、余り信じた様子は無かった。

「ねえ…風邪とかじゃないんでしょ?何か病気なの?ちゃんと病院行ってる?」
うん、大丈夫だよ。
「…何か、悩みとかあるんじゃないの?」
大丈夫だよ。
「嘘。近藤君、そうやって微笑む時はいつも嘘付いてる時だもん。ねえ、一体どうしたの?」
…ホントに大丈夫だよ。
「…私じゃ、頼りにならない…?」
…そんな事ないよ。
「だったら教えてよ!」
…頼むから、そんなに近付かないでくれ。
「近付かれたら困る事でもあるの?
あるよ、だから…

ドサリ、と、ソファーに押し倒される。
「ちょっと前から、ちょっとづつ、私の事、避け初めてたでしょ?何で?」
「気のせいだよ」
「気のせいじゃないでしょ!?」
「ちょっと忙しかっただけだってば」
「ねえ…何で、ホントの事言ってくれないの?何で私には…」
紗希が泣き始める。
「ごめんね…ごめんね、紗希…」
「謝るなら…教えてよ…」
それはそうかもしれない。でも、無理だ。
「ごめんね、それは無理なんだ」
「教えてくれるまで、帰らない!」
いや、心配して来てくれたんじゃなかっただろうか?
だが、一旦手から外れたボールは、そのままらしかった。
どれくらい、押し問答をしただろうか。
とうとう僕は、観念した。

「あのね、先に言っておくけど。紗希に心配掛けたかった訳でも、紗希が嫌いになった訳でもないんだよ。 ただ、紗希に嫌われたくなかったんだ」
「嫌いになったりなんて、しないのに」
「でも、心配だったんだ。あのね…」
紗希を見ると、食べたくなっちゃうんだよ、と、小さく囁いた声は。微かに震えて、いた。
紗希の目は、怖くて見れなかった。どう思われるか、解らなかったから。
紗希は、少し間を置いた後、信じられない、というように、呟いた。
「どういう、事…?」
「知らないよ」
投げやりのようだったが、本音だった。
「最初は、普通に欲情してるのかと思った。でも、違和感があった。その内、食欲があるのに食欲がないみたいな、変な事になった。ご飯がどんどん不味くなっていって、食べたいものが何なのか考えると、紗希しか浮かばなかった。おかしいとは思ってたけど、何なのかよく解らなくて、戸惑ってる内に、紗希に会う度に直接食欲を感じるようになったんだ」
淡々と一気に話すのを、紗希はジッと聞いていた。
「前に、人間の定義って何か、って話たでしょ?まさに僕は今、人間を辞めるかどうかの瀬戸際って訳だ」
自嘲的に囁いた後、でも、と、続ける。
「僕は、紗希が好き。紗希が大事。だから、どんなに腹が空いても、紗希を食べたくない。紗希に会えなくなるなんて嫌だ。でも、このままじゃどの道会えない。だけど、嫌われたくないから相談もできなかった」
目を逸らしたまま沈黙すると、そっと、横から抱きつかれた。
言ってくれたら良かったのに…と、小さく何度も呟くが、言える訳がない。
暫く、紗希の鼻をすする音だけが部屋に響いた。

「………ねえ……最初は…欲情に似てた、って、言ったよね…?」
「…うん」
どうやらそれは、気のせいだった訳だけど。
「…あのね…」
「……うん……」
「…少しだけ…試しに、噛んでみる…?」
「えっ…?」
驚いて紗希を見ると、紗希は、ほら、と手を振って、複雑な笑みを浮かべた。
「お腹空いてる時に、ガムを噛んで紛らわしたりするじゃん。それに、その……エッチな事、したら、さ…これは食欲じゃなくて性欲だって、身体がその内覚えるかもしれないじゃん」
だから…と、紗希が胸に顔を埋める。
うなじから微かに昇った香りに抱いたのは、果たして食欲か性欲か。
「ね…ちょっとぐらいなら…噛んで、いいよ…」
噛む?紗希を?ガムみたいに?
おかしいやら何やら、グチャグチャして、思わず笑ってしまった。
「く…くっ…ふ、ふ…は、は…」
懸命に押し殺しても、それでも漏れる。
「真面目だよ、私」
「解ってるけど…くくっ…紗希の方が、よっぽどおかしな事、考えるよ」
「おかしく、ないよ」
「でもそれじゃ、まるで、変なプレイみたいだよ」
「それでも、良いよ…」
「…え…?」
「変なプレイでも、なんでも、良いよ…一緒にいれるなら……離れたく、ないよぉ…そんなのヤダよぉ……」
紗希がまた、泣きだす。
僕は、ただ、そっとあやすしかなかった。
「僕だって、一緒にいたいよ…でも…我慢しきれるか、自信ないよ…いつか噛み殺しちゃうかも、しれない」
空腹を紛らわすガムになるのか。
それとも、渇いた時に海水を飲んだ時のように、より渇いてしまうのか。
どっちに転ぶかなんて、僕にも解らない。
「その時は、その時だよ」
「…いいの…?」
「うん、だから…その時まで、一緒にいて…」
紗希をそっと、抱きしめて答え代わりにした後、僕はある事に気付いた。
「じゃあ、一つ言っておかなきゃな事があるんだけど」
「何…?」
「ちょっと順番が前後したけど…僕と付き合って?」
「…最高に変なタイミング」
その通りだったから、僕は笑うしかなかった。
グシャグシャの顔のままの二人の笑い声が、静かに部屋に響いた。





あれはいつの事だっただろう、と、ぼんやりと思いながら回想に耽っていた僕の思考を、紗希の声が遮った。
「あ…」
現実に引き戻されるが、トリップしていた時間が長すぎて、すぐには目の前の事と思考がリンクしない。
それでも身体は勝手に、さっきまでの続きであろう事を、続けた。
紗希の身体に、そっと歯を立てる。
「う、あ、あぁ…」
漏れる声が、行為に反して、妙に艶かしい。
愛しくて堪らなかった。
「辛い?」
「だい、じょ…あぁっ!」
噛んだ跡を、そっと舐める。
猫がそうするように。
舌に合わせて、紗希の身体は微かに震えた。

…愛しい。
愛しくて愛しくて、堪らない。
だけど紗希は実際のところ、こんな僕をどう思っているのだろう?
僕は、紗希を傷付けたのだろうか。苦しめているのだろうか。
それとも…こんな事すら、喜んでくれているのだろうか。
思考がまたトリップする。
『ねえ、あのね。私以外にも、食欲って感じたりしてたの?』
『いいや、紗希だけだったよ』
『嬉しい。私、近藤君の特別に、やっとなれたんだね』
あれは、付き合い始めて一月ぐらい経った頃だっただろうか?
あの時、紗希は。本当に嬉しそうに、笑ったのだ。
僕に噛まれながら。
痛いはずの最中に。
あの頃と同じような表情(かお)で、同じような声で、紗希は優しく僕を受け入れていてくれる。
相変わらず食欲はなくならなくて、時折、強い苦痛にも似た衝動に侵されるが、そんな紗希の優しさが、僕を救ってくれていた、僕を僕に繋ぎとめていてくれた。
「大好きだよ、紗希」
囁いた声は、本当に本音なのにも関わらず、何故か虚しく聞こえた。

嗚呼、神様。
僕は一体、どんな悪い事をしたというのだろう?
だがすぐに、いや、と、思い直す。
神様なんて、昔から、そんなもんじゃなかったか、と……
神様なんて、昔から、優しくも冷たくもないのだ。
ヒトが勝手に期待して、自分勝手に裏切られた気になってるだけだ。
そんな幻想に付き合わされてる神様こそが、ホントは一番、いい迷惑なのかもしれない。
ああでも。
紗希が紗希だった事だけは。
「誰かに感謝したい、な…」
「…え?」
声に出ていた事に気付いて。
紗希を安心させるように微笑んで、なんでもないよ、と、答える。
そして…
僕はまた、接吻の雨を降らすように、優しく優しく、紗希の身体に口付けた…

願わくば。
僕がずっと、人でいれますように。
紗希がずっと、紗希でいてくれますように。

祈る先もないままに、そう、強く祈った。