キャンバスの向こう側

 放課後の、美術室。絵や模型や、石膏の香りが散乱してはいるけど、静かで、人気(ひとけ)が無くて、私のお気に入り。
 茜色の空が、窓を伝って、教室の空気を侵食している。その、半透明の光の粒子に包まれて、美術室は幻想的な美しさを醸し出す。

 コツ、コツ。
 ゆっくりと歩いて、私は。今日も、その絵の前で、立ち止まる。
「こんにちは。私の、愛しい子」
 その絵が誰の作品なのか、私は知らない。
 いつ置かれたのか、それとも最初から有ったのか。兎に角それは、気付いた時にはそこに有った。
 いずこかの森の湖畔で、沢山の花と光に囲まれて、幸せそうに微笑む少女の、絵。
 私はそれを見ているだけで、癒される。
 その絵の中には、私が望む世界があり、少女の微笑みは、私の願いそのものだ。
 けれど、逢瀬の時は短い。
 部活で許されている時間を30分過ぎると、各教室は閉じられ、生徒は学校を出ねばならない。それが、決まり。
 ホ、ウ……
 溜息は、重く闇に飲み込まれる。
 この時間のコントラストの移り変わりは激しい。
 先程までの鮮やかな茜色には、今は多分に藍色と濃紺が混じっていた。
「また明日、ね」
 クルリと振り向き、逢瀬の時に別れを告げる。
 明日の再会を、信じて。

 コッコッコッコッ……
 足早に駆ける少女の足音が、薄暗い廊下にエコーを持って響き渡る。
 だから、少女は知らない。
 やまびこのように繰り返された、微かな声に。
 気付かずに、少女は学校を後にした。
 後に残されたのは、ただ、静寂ばかり。

 マタ、アシタネ……


 翌日も、少女は絵の前にいた。
「本当に…貴女は綺麗だわ」
 いつもと変わらぬ、優しい笑み。
 その背に羽があったとしても誰も疑わないような、光宿した笑み。
「私も…この絵の中に入れれば良いのに……」
 そう、呟いた時。
 応えが……有った。
『本当に…?』
「えっ…?」
 グルリと辺りを見回す。が、勿論、誰もいない。
『私は、ここ。貴女の友人。貴女の願い。そして、貴女の望み』
 まさか。でも、それしか考えられず、少女は絵の中の少女へと視線を向けた。
 絵の少女に、勿論変わりはない。
 でも、確かに、視線が合ったのを、感じた。
『貴女が願うのなら、代わってあげるよ…私の愛しい人』
 そんな事ができるのだろうか?
 いや、そもそも信用できるというのか。
 頭の中で、警鐘が鳴り響く。
 それでも、絵の少女の言葉は魅力的で……
 夢か現実かも解らない中で、少女は呟くように答えた。
「ええ…できるのなら、代わりたいわ……」
 その、応えに。
 絵の少女は、うっとりと、笑った。いつもの微笑みではなく、満足げに。

『ありがとう、新しい私。飽きたら貴女も、誰かと代わって貰うと良いわ』
 暗闇の中で、少女の声だけが、ただ、響いた。

 その後、その学校で、特に騒ぎなどは起こってはいない。
 美術室も、絵も、変わらずそこにある。
 けれど、二つの変化が有ったことに気付いた者は、誰もいない……。

<End>



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こちらは、誰かがお題を出して、それをその場で即興で作るという遊びで書いたものになります。