夜道も優しく感じる程に

 セキノ。
 郵便局から出てきた私は、見知った姿を見とめて足を止めた。
 どうしよう、と一瞬逡巡した後、声を掛けてみた。
「こんばんは」
 セキノが目を細めて近寄ってきて、私の顔を覗き込む。その顔は夕暮れの暗さの中でも、お世辞にも可愛くはないな、と思わせた。
「ああ、静!」
 はい、と胸の内苦笑する。
 コンタクトをつければいいのに、といつも思うのだけど、相変わらずつけてはいないらしい。
「今、帰り?」
「うん、疲れた〜」
「ピアノだよね?凄いよね、尊敬する」
「凄くないよぉ。直子の方がずっと上手いし」
「凄いって。私からすると魔法みたいだよ」
 心から、言う。彼女は卒業式でピアノを弾く事になったため、1週間ほど前から練習に励んでいた。それに合わせて、放課後教室に残るのが私の日課になっていた。……誰にも言ってない事だけど。
 ホームルームが終って30分ぐらいもすると、教室はそれまでの喧騒が嘘のように人気がなくなる。私はそれから30分ぐらいの間、廃墟のようになった教室で一人、セキノの演奏に耳を澄ますのだ。
 セキノのその細い指の生み出す音は、その小柄で華奢な外見を裏切らない、透明で繊細な音色だった。細いけれどしっかりとした音は校舎中を優しく染め、その一端は私の囁くような歌を絡め取り……そして黄昏に緩く溶け込む。
 それは、私の密かな楽しみだった。
 セキノの言った直子も上手いけれど、私は彼女の力強い音より、セキノの音の方がずっと綺麗だと思う――贔屓目もあるかもしれないが。
「静こそ凄いじゃない。小説書いてるんでしょ?私なんて作文も書けないよ」
「凄くない凄くない。文章なんて、書くだけなら誰にでもできるし」
「えー、でも私には無理だよ」
「う〜ん…価値観の違いだねえ」
 僅かに苦笑する。
「あ、そろそろ……」
「うん、またね」
 またね。また会いましょう。希望的な言葉。
 でも次はこうやって話せるのだろうか?
 学校の外でなら、それなりに話しもする、けれど学校の中では、話すなど滅多にない。
 私は心に重石を感じた。
 セキノとの距離は…友達と言える程ではないのだ。それがとても悲しかった。
 セキノは可愛い。クルクルよく動くセキノの行動は少し天然入ってて、微笑を誘う。
 ついその姿を追ってしまいそうになるが、それを誰かに気付かれるのが嫌で、見る事はできない。話しかけるなんて、もっと無理。どう話し掛けたらいいのか判らないし、迷惑だったら、と思うと怖い。
 それに学校だと、他人の目がある。誰かが誰かに話し掛けるなんて、ありふれた事、けれど私は気になるのだ。
 被害妄想、かもしれない。
 12年近くイジメにあっているせいだろうか。いつしか私は、人との接触を怖がるようになっていた。
 けれど。一人で大丈夫な程、強くもなくて。交流を望まずにはいられないのだ。
 ねえ、セキノ……
 もっと話したいよ。
 もっと一緒にいたいよ。
 もっと……
 あと1週間。あと1週間で、卒業式。
 学校に来なくなるという事は、セキノとの繋がりをほとんど完全に絶たれるという事。
 嫌だ。
 あれほど学校という檻から解放される事を願っていたのに、今はこんなにも嫌だ。
 セキノがいたから、学校に来ていたのだ。中退も自殺もせずに。
 セキノに会いたい、それだけが唯一の「やりたい事」だった。漠然とした感情、けれどまだここに居てもいいか、と思える理由。
 ねえ、セキノ。
 これ以上遠くに行かないでよ……

 耳障りな着信音、携帯の。
 五月蝿いから、取った。
「はい?」
「静?関野だけど……」
 受話器ごしの声に、ガバッと跳ね起きる。
 これは夢?それとも悪戯?
「関野さん?どうしたの?」
「ちょっと出てこれる?」
 チラリ、と時計を見る。
 夜9時。遅いとは言えないが、少女が気軽にうろつくような時間ではなかった。
 でも、だからこそ私は躊躇わずに答えた。
「いいよ。何処?」
「ぐるぐる公園」
「おっけ」
 パチ、と携帯を閉じる。
 場所は確認した、無駄に通話料を上げるのは申し訳ない。
 バイト禁止の学校に通っている高校生に取って、携帯代とは音なに取っての家賃や税金と同じくらい切実な問題なのだ。
 急いで着替え、家を出る。
 ぐるぐる公園。3丁目にある、この地域で唯一「ぐるぐる回る円形ジャングルジムのような物」がある公園の通称だ。
 小学校の時に2、3回行ったきりだったが、まあどうにかなるだろう。
 走る…セキノの元へ。夜風が身体に心地良い。
 清廉で尖った空気は好きだった。寒さは得意じゃないけれど。それでもあの纏わりつくような、夏の気持ち悪い生温かさよりは、余程マシ。
「静!」
 セキノが駆け寄って来る。
「ごめんね、いきなり呼び出して」
「いいよ、どうせ暇してたし」
 それは事実だった。
 普段なら今頃はとっくに寝ているはずなのだが、何故か不定期で襲われる不眠症のせいで、今日は眠れずにいたのだ。
 おかげでセキノに会えたのだからラッキーだったが。
「どうしたの?」
「ちょっと親と喧嘩しちゃって。悪いんだけど泊めてもらえる?」
「狭くてもいいなら大丈夫だよ」
「ありがと」
 セキノが親と喧嘩するなんて、想像した事もなかった。
 まして、私を頼ってくれるなんて。
 何だか嬉しいような感じで、ドキドキした。
「寒かったでしょ?何か飲む?」
「猫舌だから」
「そっか。じゃ家で温いお茶飲も」
 言って歩き出す。セキノとこうして歩けるなんて、夢みたいだった。
 急ぐでなく、止まるでなく、ゆっくりと歩く。時間も空気も、とても穏やかだった。
 幸わせ。
 些細な事だったが、確かにそれは幸せだった。
 他愛もない話をしながら、夜の中を歩く。一人の時はどこか怖い夜道が、けれど今日は優しかった……