夢の眠る地

 気がつくと私は、見知らぬ場所にいた。
 茫洋と、歩いて行く。
 目的があっての事ではない。ただ、歩いているから歩いている、そんな感じだ。
 しばらくして、開けた所にでた。
 それまでのところは、何もかもが真っ黒で、自分の身体すら闇と同化していたのだけれど、そこは淡い青がふんわりと包み込んでいた。
 そのどこまでも透明な光の粒子は、とても柔らかく、そして温かく光っていた。
「空気が、違うわ」
 気がつくとそう呟いていた。
 清浄な空気が、そう言わせたのだろう。
 冷たく無機質なそれまでのところとは、どこまでも対照的だった。
 私はゆっくりと青の中を進んで行った。
 光の粒子がその密度を濃くしている所があり、近づいてみると一人の綺麗な少女が眠っていた。
 光の聖霊のようだと、思った。
 まるで光に守られているかのような、光を従えているかのような……
 不意に少女は目を開いた。その視線が、自分を真っ直ぐに捕える。
「珍しいわね」
 少女は外見を裏切らない澄んだ声で、言った。
「夢が紛れ込んで来るなんて」
「夢…?」
 私が?
「貴方、名前は?」
 名前……
 名前なら、1つある。けれどそれは捨てた名だった。
「言いたくないなら、いいわ」
 少女の言葉にホッとする。
「ここは…?」
「ここは夢眠の地―夢の眠る所。夢の『楽しい』や『悲しい』などは夢鳥となってここに来るわ、眠りを得るために」
「私がその夢鳥だと言うの?」
「違うわ。夢鳥は思いだけの存在。貴方は魂と呼ばれるもの…夢鳥を受け入れる器。ごく稀に、貴方のように夢が紛れ込むの、夢鳥に引きずられて」
 よく判らない、と思った。
 つまりは、ここは夢の中なのだろうか。だとしたら……
 このままここにいれないか、という思いが胸を過ぎる。
 すると少女は、それを見透かしたかのように口を開いた。
「勘違いしないで、ここは楽園なんかじゃないわ。夢は草食獣のようなもの…そして肉食獣は沢山いる。ここで夢は獲物でしかないわ。食われるのよ、夢喰の獣に…ね」
「食われても、いいわ」
 帰りたくなんか、ない。
「そう、貴方がそれでいいのなら、それでもいいわ。けれど覚えておいて、ここに貴方の居場所はないという事を」
 少女の言葉を無視し、私は少女に背を向けた。
 青の光を抜け出し、闇へ入り込む。
 視界の端で光は何かを訴えるかのように仄かに光っていた。

 しばらく歩いて行くと、闇はだんだんに輪郭を形取っていき、荒野が現れた。
 風の音が、漠然とした不安や恐怖を誘う。
 人の叫びにも似ている、と思った時、少し離れた丘の上に人の姿を認めて立ち止まった。
 まるで、その人の叫びのように一瞬思えたからだ。
 視線に気付いてか、その人が振り返る。
 その人は、長い黒髪に少しキツめな顔立ちの女性だった。
「こんにちわ」
 声をかけると、女性は魅力的な笑みを向けてくれた。
「こんにちわ」
「あの、ここは…?」
「ここは、夢嘆の丘。嘆きの荒野と呼ぶ人もいるわ」
「夢嘆…風の音が本当に嘆きのようだわ」
「嘆いているのよ、彼らは。ここは食われた夢達の墓場……風の音は彼らの叫びであり、そしてレクイエムなのよ」
 墓場、という言葉に納得する。
 この丘の雰囲気は、まさに墓場そのものだった。
 哀しさと怖さを同胞した、空気……。
 ふと気付いて、私は尋ねてみた。
「貴方は、何故ここに?」
「私は夢の鎮魂者。そしてこの丘の守人。私は永遠に彼らを見守り、慰め…鎮魂歌を歌い続けるの、彼らのために」
 そう言って彼女は目を閉じ、手を宙に差し出して歌い始めた。
 それは、魂を揺さぶるような、強い歌だった。
 心が、魂が、引き寄せられる。
 ただ歌の響きによってのみ、捕えられるのだ。
 凄い、と思った。
 もっと聞いていたい。もっと、ずっと、永遠に。
 そう思った時の事。
「やめときな、お嬢ちゃん」
 掛けられた声に振り向くと、一人の男性がいた。
「そいつの歌はレクイエムなんかじゃない、セイレーンの魔歌さ」
 思わず、女性に視線を走らせる。
 と、女性は鬼のような形相になり、男を睨み付けていた。
 思わず、後ずさる。
「惑わせの蛇!邪魔をおしでないよ!」
「たまには人助けもしようかと思ってね。優しいだろう?魂呼のセイレーン」
「そう言って獲物を横取りする気じゃないのかい?」
「人聞きの悪い事を言わないでおくれよ」
 どうやらこの男の方も、あまり信用できないらしい。
 そう判断すると、二人が言い争ってる間にその場を離れた。

 歩いていると、闇は再び姿を消して、森が見えてきた。
 守の中へ足を踏み入れてみる。
 木々がうっそうと茂っていて、ともすると迷いそうだった。
「あ」
 木の実を見つけて、立ち止まる。
 桑の実に似た、赤い実だった。
「食べれるかな…?」
 少しの間迷って手を伸ばそうとした時。
 どこからともなく、声が聞こえて来た。
「やめときなよ。やめときなよ」
 思わず、辺りを見回す。
 けれど、誰もいなかった。
 首を傾げ、また手を伸ばす。
「死んじゃうよ。死んじゃうよ」
 また聞こえて来た声に、もう一度辺りを見回してみる。
 そこへ今度は別の声が聞こえて来た。
「気にする事はないさ。その実はとても美味しいよ」
「やめなよ、やめなよ。その実はとても不味いよ」
「そいつは珍しい実さ、食べなきゃ損だよ」
「およし、およし。どこにでもある、食べれない実さ」
「嘘吐きの言う事なんか、気にする事はないよ。そいつは何にでも効く薬さ、食べておいた方がいいよ」
「おやめ、おやめ、きっと酷い事になるよ」
 次々に、色んな声が降って来る。
 全てが嘘のようにも、全てが真のようにも、聞こえる。
 どうしよう、と思い悩む。
「あたしの言う事を聞きなよ、あたしの言う事を聞きなよ」
「そいつは嘘吐きさ、そいつは嘘吐きさ」
「こいつは性質の悪い蛇だよ、耳を貸す必要なんかないさ」
 蛇、という単語に、ピクリと反応する。
 惑わせの蛇…?
 もう一度、ぐるりと注意深く見回してみる。
 と、数匹の蛇が、妖しく眼を光らせていた。
 自分の予想が当たっていた事を確信する。
 この声の主が惑わせの蛇だというのなら、人を惑わせ、その場に止めるのが目的だろう。
 だとしたら、いつまでもこんな所にいる必要はない。
 私は、蛇に用心しながら木の実を取った。
 少しだけ不安に思いながら、それを口にする。
 実は、美味しくはなかったが、不味くもなかった。
 いくつかを手に取ると、私はその場を去った。
「お馬鹿、お馬鹿、気付かれちゃったじゃないの」
「ごめんよ、ごめんよ」
 蛇たちは人を惑わせるだけらしい。
 蛇、と洩らした蛇を責めるだけで、追ってくる気配はなかった。

 どんどん森の中を進んでいく。
 森はとても広かった。
 しばらくして、ちょっとした広場のような所へ出た。
 そこには、緩やかに波打った翠の髪の女性が、いた。
 また敵では、と一瞬思いはしたけれど、女性の雰囲気は先程の丘の人たちとは違って、最初の女性のように精霊のようだった。
 女性は、綺麗な声で歌っていた。
 のびのびとした、優しい歌だ。
 セイレーンのように心が引きずられる事はないけれど、聞いたら惹かれずにはいられない、そんな歌だった。
 歌が一区切りしたところで、声をかけてみた、ごく自然に。
「綺麗な歌ですね」
「ありがとう」
 女性はにっこりと微笑んで答えた。
 春の日溜りのような、という表現がしっくりとくる、そんな微笑だった。
「夢のお客様だなんて、珍しいわね。この森には色んな者たちがいるから、夢は滅多に来ないのよ」
「この森は何というのですか?」
「夢宿の森よ。森の木は、人の心―意識の核なの。夢鳥は、ここへ飛んできて木に止まるわ。そうすると止まられた木の人は、その夢鳥の影響する夢を見る。それが、夢」
「夢鳥の止まらなかった木の人は?」
「その人は、夢を見ないわ」
「起きてる人の木や、すでに夢鳥の止まっている木に夢鳥が止まる事は?」
「起きている人の木に夢鳥が止まる事はないわ。もし止まったなら、その人の感情に影響する事になるわね。滅多にない事だけど、同じ木に夢鳥が何羽か止まったなら、夢鳥の数だけ夢を見る事になるわ」
「そうなんですか」
 夢がそんな仕組みだったとは、思っても見なかった。
「貴方は、何故ここに?」
「歩いてたら、ここについたの。そしたら歌が綺麗だったから……」
「そう。私の歌は夢鳥の道標だから、貴方がここに辿り付いたのは歌のせいかもしれないわね」
「道標?」
「ええ。私は鳥誘の樹姫。夢鳥が迷わないよう歌で導き、そして夢鳥とこの森を守るのが私の役目」
「だから…歌があんなに優しいのですね」
「ありがとう」
 嬉しそうに、樹姫は微笑んだ。
 私はまたどこかへ立ち去ろうとした。
 それを、樹姫の声で止められる。
「貴方、元の世界へは帰らないの?」
「帰りたくは、ありません」
「でも、帰った方がいいわ。心配してる人もいるでしょうし」
「そんな人はいないわ。だって、皆私の事が嫌いなんだもの」
 言うと、樹姫は哀しげに顔を曇らせた。
「さようなら」
 判れと拒絶の意を込めて、告げる。
 踵を返した背に、樹姫の優しげな声がかけられた。
「この森には獣が多いから、気をつけてね」
「ありがとう」
 振り返りはせずに答えて、私は広場を後にした。

 私は歩いて行く。私は歩いて行く。
 どんどん、森は深くなっていった。
 ガサリ。
 音がして振り返る。
「ひ…っ」
 そこにいたのは。
 漆黒の、獣……。
 獣の深紅の眼が光る。
 覚える、戦慄……。
 逃げなければと思うのに、恐怖で体が動かない。
「グルル……」
 低い、唸り声。
 獣は用心してか、すぐには襲ってこなかった。
 けれど、隙をみせたらすぐに襲い掛かって来るはず。
 冷や汗が流れる。
 空気が重く、息苦しい。
 しばらく睨み合っていたが、痺れをきらしてか、獣が走ってきた。
 いやだ!
 声にならない悲鳴と共に、走り出す。
 生い茂った葉が視界を遮る。
 どこへ逃げれば…?
 あてはない。
 走る…滅茶苦茶に。
 逃げなければ、とただそれだけを念じて。
 その中で、どこか冷静な部分が疑問を投げかける。
(食われてもいいんじゃなかったの?)
 確かに私は食われてもいいと言った。
 でも。
 嫌…嫌。
 あの獣に掴まりたくはない。
 だから、逃げなくては。
(逃げて逃げて逃げて、いつまで逃げ続けるつもり?)
 あの獣を降りきれるまで。
(どこへ逃げるつもり?)
 獣のいないところへ。
(そうして、その後はどうするの?貴方に居場所はない。だって貴方は自分でそれを捨てたのだから)
 やめて!私は逃げる…逃げるの。
(無理よ、貴方に逃げ場はないわ。どこへ逃げたとしても、肉食獣は必ずいる。貴方は数少ない草食獣…見逃すはずがないわ。そして、守ってくれる人もいない)
 それでも私は逃げ続けるの。
(何故?だって貴方は死にたがってたじゃないの)
 声の言う事は、何処までも正鵠を射ていた。
 だから、私は耳を塞ぐしかない。
 けれど、声は自分の中からする声だから、どこまでも追って来るのだ。
 死にたいのは本当。
 だけど食われるのは、嫌。
 だから、走るのだ。
 矛盾している。そんな事、判りきっている。
 それでも……!
「きゃあっ」
 獣に飛びかかられて、反射的に手で身を庇う。
 唸り声が、すぐ近くで聞こえる。
 それは死神の咆哮……。
 私、死ぬの…?
 ここで、獣に食い荒らされて。
 脳裏に、無残な姿が浮かぶ。
 それは更に恐怖を誘った。
 必死でもがく。
 苦しい苦しい苦しい。
 諦めに、目を閉じた時。
 銃声が、響いた。
 恐る恐る、眼を開ける。
 獣は、朱に染まって死んでいた。
「大丈夫かい?お嬢ちゃん」
 助けてくれた、狩人らしい人が声をかけてきた。
 こくりと、頷く。
「ありがとうございます」
「なに、たまには獣も仕留めねえとな」
「あの、貴方は…?」
「俺は、普段は鳥専門の狩人さ」
「鳥専門…?」
 珍しい狩人だ。
「本職は、鳥じゃねえんだけどな。今日はついてるぜ、珍しくその本職の獲物に会えた」
 何となし不穏を感じて、私は怯えつつも尋ねずにはいられなかった。
「あの、本職って…?」
「俺の本職は、夢追の狩人さ」
「…!」
 慌てて走り出す。
 銃弾を、ようよう交わしながら。
 さっきまでは邪魔でしかなかった葉が、今は茂っているのが幸い。
 けれど、立てる音で居場所はすぐに知れるだろう。
 もう、嫌……。
 涙がこぼれる。
 でも、帰る場所なんてないのだ。
 けれど、ここで私は獲物でしかないという事実。
 どうしたら…?
 判らぬままに、走り続けた。

 泉……!
 しばらく走り続けたせいで、喉はカラカラだった。
 反射的に駆け寄り、水を飲もうとする。
 と、声が掛けられた。
「やめた方がいいわ」
 驚き、顔を上げる。
 と、泉の真中に、翡の長い髪の女性がいた。
「ここは、夢見の泉…水を飲めば、意識が引きずられるわ」
「夢見の泉……」
 泉は、淡い青から深い青まで、綺麗なグラデーションがかかっていた。
 水はどこまでも透明でありながら、その底は見えなかった。
「でも、私は喉が乾いているの」
 本当を言うと、ここの空気を吸っているだけで、喉の渇きは大分癒えていたのだけれど。
 そう訴えかけてみると、女性は近付いて来て竹筒を差し出してくれた。
「これを」
 本当なら、これまでの事を考えて警戒するのが普通なのだが、私は何の躊躇いもなくそれを受け取った。
 今まで出会った人たちの事を考えて、黒髪は夢喰、翠や青の髪は夢守であるという認識もあったが、それ以上に女性の雰囲気が清浄であったからだった。
「ありがとう」
 お礼を言うと、女性はにっこりと微笑んだ。
 竹筒の水はとても美味しくて、コクリと飲み干した。
「獣に追われてきたの?」
「ええ」
「大変だったわね。でもここは大丈夫だから、安心してゆっくり休んでいくといいわ。泉のほとりでは絶対に他を襲わないというルールが成り立っているから」
「あの、貴方はこの泉の…?」
「ええ。私はこの泉の主、夢与の水姫」
「夢与…?」
「そう、私はこの泉に訪れたものに夢を見せるのが役目。夢は、未来以外なら、どんな夢でも見せれるわ」
 女性は誇らしげに言った。
「貴方は、何か見たい夢がある?」
「いいえ、特に見たい夢は…」
「そう?例えば家族が今どうしてるのかとか、興味はない?」
「ないわ」
「家族の事が、嫌いなの?」
「嫌いじゃないわ、ただ……」
「ただ?」
 促され、答を探す様に視線をさ迷わせる。
 昔からの癖だ。
 歌ってる時に音が合っているか音を探す時、答に詰まった時など、見えるわけでもないのに、無意識に探してしまうのだった。
「…嫌ってるのは家族のほうだわ」
「何故?」
「だって私、役立たずだもの。それに私はお母さんを苦しめたお父さんとの子供だから、お母さんが私を愛してるはずがないわ」
「お母さんは貴方を苛めるの?」
 私は頭を振った。そんな記憶は、欠片もない。
「お母さんは私を苛めはしないけれど、とても無関心よ。高校を決める時も、就職先を探す時も、何も考えてはくれなかったわ。私が学校で苛められていた時も、学校に行っていればそれでいいと思っていて、何もしてはくれなかった。それに、私がお母さんのお金を持ち出した時も、怒りはしなかったわ」
「そう。でも本当に貴方は愛されてないのかしら」
「きっと…きっと、そうよ」
 答えると、女性は小首を傾げた。
「ねえ、貴方は?貴方は家族の事をどう思っているの?」
「判らないわ。好きなのか嫌いなのか……。お母さんが私を育てるのは世間体だろうって思いながらも、子供を構うのは親の義務って、こずかいを貰ったり、食事を作ってもらうのを、当然と思ってる。嫌いなのに側にいたい…好きなのに側にいたくない……愛したいのに愛せない……」
 呟くと、女性は優しげににっこりと微笑んだ。
「家族の事が、好きなのね」
「でも…!」
「好きだから、迷うのよ。不安になって、疑問に思って…好きじゃなかったら気にならないわ」
「……」
 そうなのだろうか。
「ねえ、夢を見てみない?そしたら、何か判るかもしれないわ」
 私はしばらく考えて、そして頷いた。
 まだ迷ってはいたけれど。
 女性はにっこりと微笑むと、泉の水を渡してくれた。

『早く生まれておいで、愛しい子』
 妊娠している女性が、幸せそうに微笑んで、話しかける。
 記憶のお母さんとは随分と違うのに、それでもその女性はお母さんだと判った。
 これは、私が生まれる前の夢だ。
『貴方は私の宝物よ』
 お母さんが囁いた所へ、男性が現れる。
『おや、静だけの宝物かい?』
 悪戯っぽく笑う男性に、女性はあら、と微笑んだ。
『そうね、この子は私達の宝物だったわね』
 お母さんは、本当に幸せそうだった。

 視界が変わる。
 これは…私が熱を出した時の夢だ。
『そろそろ休んだら?』
『いいえ…布団に行ってもこの子が心配で、眠れはしませんわ。もう少し……』
 傍らの私を心配げに見つめながら、お母さんが言う。
『だが、静まで体を壊しては…』
『大丈夫よ。この子が苦しんでるのに、私だけ休むなんてできないわ』
 そう言って女性は子供の額のタオルを取り替えた。
 お母さん……
 呆然と、その光景を見つめる。
 お母さんも随分とやつれているというのに。

 また視界は変わった。
『母さん、あの子の高校の事、何も相談にのってやってないんだって?俺に聞きに来たよ』
『進路に口は出さない事に決めてるもの。貴方の時だって、そうだったでしょう?』
『まあね。でも、俺は行きたいとこが決ってたから良かったけど、あいつはやりたい事自体ないから困ってたぜ』
 お兄ちゃんの言葉に、お母さんは微かに微笑むと、俯いた。
『でもね…私はあの子の未来を歪めたくはないのよ。本当に行きたい所に行って欲しいもの』
 お母さんの言葉に愕然とする。
 ただの放任主義だと思っていたのに。

 そして視界は現在に移った。
『まだ、目を覚まさないの?』
 これは…東京に行ってた兄の声だ。
 もうずっと帰って来てなかったのに。
『ええ……』
 これは、お母さんの声。
『原因が判らないんだって?』
『お医者さんは、眠ってるだけだって。でも、もう1週間も眠り続けてるわ。家出したあげくに、こんな事になって…どこまで心配をかけさせるんだか……』
 お母さんの目から、涙がこぼれる。
『本当に…早く起きて……』
 ごめんなさい…ごめんなさい。
 心の中、懺悔を繰り返す。
 涙で歪む視界の中、私は目覚めた。

 涙はこぼれる、とりとめもなく。
 そこへ淡い翡翠の光が現れ、驚く私の目の前で、光は最初に出会った女性の姿になった。
「どう、そろそろ帰る気になった?」
 私はコクリと頷いた。
 私は帰らなきゃ。家族のために…自分のために。
 だって私は愛されてるのだから。
 女性はにっこりと微笑み、そして翡翠の扉を作り出した。
 扉の向こうには、私の身体と、それを見守る家族の姿。
「お行きなさいな。貴方の居場所はここではないのだから」
 頷き、歩き出す。
 ふと気付いて、私は振り帰った。
「貴方は一体…?」
「私はバク―夢の守人」
 バク……。
 その名を胸の内、繰り返す。
「バク…ありがとう。本当に。」
 言って、私は手を振った。
「バイバイ」
 さようなら…不思議で優しい夢の世界…夢守たち。
 振り返らずに歩く後で、扉の閉まる音がした。
 きっと、扉はもう2度と開かないだろう。
 少しだけ、淋しさが胸に残った。