始まる為の終りに至る遊び

 コツ、コツ…
 まるで部屋に合わせるかのように、足音までも硬質に響くそれを聞きながら…歩を進める。
 鏡を見ないまでも、表情が硬い事が解る。だが、繕う余裕はない。
 キュ、と口を堅く結びながら、そこ、を目指す。
 近くて遠い、その部屋を……


「…魔王」
 …悠然と。そう、実に悠然と、座っている、その部屋の主に。そっと、声を掛ける。
 掛けられた相手は、面白くもなさそうに、視線だけチラリとこちらへ向けた。
「…懲りないな、今日も来たのか」
「ああ、懲りないさ。お前に振り向いてもらうまでは、ね」
 挑むように見つめるが、相手…魔王は、興味なさげに肩を竦めただけだった。
「よくまあ懲りないものだ。このオレがそんなに欲しいか?」
「…ああ、欲しい。何度でも言おう…オレのモノになってはくれないか…?
「興味ないな。残滓如きが、オレに何を望む」
 残滓、と言われて、ぐ、と、言葉に詰まる。
 確かにオレは残滓だ…大昔に取り残された魂の、その欠片に過ぎない。
 …だが。オレはここにこうして、自我を持って存在して、い、る……
 その沈黙を、どう捉えたのか、魔王は。
「…消えろ。今、此処の主は、オレだ。黄泉返り、意志を持って新たに生まれたのは、オレ…」
 冷ややかに…何処までも、冷ややかに、見詰めて。
「取り残され、永らえただけの残滓など、必要、ない」
 酷薄に、告げる。話し合いの余地はないとばかりに。
 だが、それでも。
「残滓だろうが、欠片だろうが、オレはオレ、だ…お前に惹かれている、一つの個体だ」
 声を、魂を、絞り出すように。
「お前が欲しい。お前がオレだからじゃない、お前という個体に、オレという個体が、惹かれているんだ」
「…くだらん。所詮それもまやかしだろう…オレと一つになり、再びの生でも望んでいるのか?」
「そんな、事…!無い…! オレは、何も望んじゃいない、ただ、お前が欲しいだけだ!」
「何をもって、証立てる?お前自身が誤解している可能性すらあるだろうに」
「…証なんて、無い。証立てる方法も、何も…あるなら、幾らでも、何でもしてるさ…!」
 悔しさを隠そうともせずに、叫ぶ。苛立ちとも付かない、やり場のない感情が込み上げて。
「…へぇ? 何でも、ねえ…」
 魔王がおかしげに鼻を鳴らす。信じてない事を隠そうともしない、その態度。
 どうすれば伝わるのだろう?どうすれば……
「…ああ、何でも、だ。お前が信じてくれるなら、命でもなんだって、くれてやる…」
 その言葉に、初めて。初めて…魔王が、少しばかりの興味の色を、瞳に載せた。
「その言葉…偽りないか?」
 初めて魔王が玉座から降りて近付いてきて、覗き込むやいなや。
 魔王の酷薄な瞳が、至近距離で、妖しく輝やい、た。
「お前が本当に命を捨てれるのなら…信じてやっても、良いぜ」
 クスリ、と、硬質な笑み。
 ああ…ルビーの、ようだ。 綺麗で美しくて、だけど…
 この上なく、冷、た、い……
 だが、それでも。選択肢など、最初から、無いのだ。
 コクリ、と、頷くと、初めて魔王は笑みを見せた。
 但し、ニィ、という形容詞がピッタリな、残酷な笑み、を。
 それでも。扉が開かれた事が、嬉しかった。


 静かで肌寒い、硬質な部屋に。向かい合って、座っている。
 目の前のテーブルには、一組のチェス。それまで、硬質に輝く鉄製のようだ。
 まったく…この魔王という男は、まるで、全ての温かさを拒んででもいるようだった。
「さて、ルールを説明しようか。チェスは知ってるよな?」
「ああ、勿論」
「なら良い。だが勿論そのままじゃ意味がない…追加ルールを説明しよう」
 実に愉し気に、魔王が告げる。逃げても良いんだぞと言いたげに。
 そう…試しは、もう、始まってるのだ。
「駒の裏には、それぞれパーツが書いてある。お前が駒を取るたびに、オレはそこを切りつけよう」
「…っ…!」
「痛みに耐えて、見事勝ったなら、お前の勝ちだ。どうだ、簡単だろう?」
 くつり、と魔王が笑みを漏らす。優位に立つものだけに許された、残酷で傲慢な笑みを。
「…お前が、駒を取った時は?」
「そうだな、オレもお前と同じ条件でも良いが…お前にオレは切れないだろう?」
 続きを言い掛けた所で、ふと、良い事を思い付いた、という顔をして。
「そうだな、大サービスだ…選ばせてやろう。オレが自分で自分を切るのと、お前に別の責めをするのと…
 どちらが良い?」
 残酷な問いを、投げ掛けてくる。恐らく、逡巡するのも予想して、愉しんでいるのだと解っていても。
 答えなど…選びようが、なかった。
 傷付けるのがオレだろうと魔王自身だろうと、その身を傷付けたくはないのだから。
「……オレ、に………」
「ククッ、自ら苦痛を選ぶか。解った、叶えてやろう。1駒に付き、5kg、だ。5kgの重りをお前に科す」
 クスクスと嗤う魔王の視線を感じて、思わず顔を逸らす。無駄と解っていても。
「言っておくが、甘い期待はするなよ。本当に殺されたりはしない筈、なんて、思わない方が良い」
「…ああ、解ってる」
 この魔王が。フェイクなど、する筈がない事は解ってる。
 これは命懸けのゲームですらない。命を捧げるための遊戯なのだ。だが。
 もう戻れない。止まれない。死の先だろうと何だろうと、魔王を手に入れられるというのなら、オレは…
「ククッ。では始めようか…GAME START、だ」
 残酷な遊びの始まりにしては、実にさらりと。開始を告げる合図が、部屋に響いた。



「…ボーンを、二歩前に」
「ククッ…随分と大人しい攻め方だな?駒を取るのが怖いか?」
 既に数手を交わしているが、未だに一つも駒を取っていないオレに。
 嬲るような言葉を紡ぎながら、魔王もボーンを動かす。だがそれには答えず、次の手を打つ。
「今度は此方のボーンを、一歩前に」
「本当に慎重な事だ。まあ、仕方ないか。好き好んで切り裂かれたくもないだろう。だが」
 ぽん、と、一つのボーンが、取られて。
「そのままじゃ勝てないし、終わらないし、ましてや、お前の駒が取られない訳でもないんだぜ?」
 ニヤリと、魔王が告げる。取った駒を魔王が横に置いた瞬間、ズシリ、と、太腿に重みを感じた。
 開始前に、既に太腿には冷たい石材が乗せられていたが、それが明らかに重みを増したのだ。
「まあ、ジワジワと責められたいなら、それも良いけどな」
 クスリ、と笑みを零して、態とらしく言う。悉く遊ばれて、いるのだ。
「……ビショップで、そこの、ボーンを」
 意を決して、攻めに出る。
「へえ、そこから切り込んで来たか。確かに良い手だ。さて、取ったという事は…解っているな?」
 クスリ、と見つめるのを、無言で流す。それが答えだとばかりに。
 それを気にした素振りも見せず、魔王が駒の裏を確認し、クスッと嗤う。
「…へえ。腕か。良かったな、いきなり急所じゃなくて」
 事前に聞いたところ、どの駒にどのパーツが振られているかは、魔王にも解らないらしい。
 解らない方がより楽しいからと、そうしているらしい。
 ただし、キングだけは、心臓に決まっているようだが。
「さて…最初だからな。左腕にしといてやろう、序盤から手元が狂われても面白くない」
 クスッ、と笑むと魔王が近付き。刃を当てた後、一瞬だけ顔を覗き込まれたが、躊躇いもせずに深く刺された。
「…っ……!」
 冷たい?いや、熱い?
 狂った感覚が、痛みと一緒に体の芯へと向かって走り抜ける。
 一瞬遅れて朱が咲き、僅かにテーブルと石材を染めた。
「フフッ、中々の痛みだろう?どうする?続けるか?」
 痛みの渦が少し収まってから、頷く。まだ、この程度、なのだ。
「フフ…そうか。ではオレの番だな。では…またそこの邪魔なボーンを取っておくか」
 クス、と、駒を取るが早いか。再び太腿の重みが増す。まだ、たかが15kg、だが。
「…っ……」
 僅かに息を漏らす。たかが、と言っても、一瞬で5kgの付加は、それ以上に感じるのだ。
「さあ…またお前の番だ」
 キラリ、と、ルビーの相貌が煌めく。それに見惚れる事も出来ないが。
 痛みを無視して、盤面に目を向ける。そして、僅かな思考の後に。
「……ビショップで、そこのナイトを……」
「へえ、更に深く切り込んで来たか。さて、今度は何処かな?」
 ゆっくりと、魔王が手を伸ばす。恐らくはわざとだろう、魔王はこの時間をこそ、愉しんでいるのだから。
「…あぁ。今度は太腿か。フフ、中々運が良いじゃないか」
 クスクスと笑いながら、魔王が近付いてくる。
 刺されると解っている状況で魔王を待つしかないオレの心境は、魔王にどう映っているのだろう?
 勿論、元より逃げる気も無いが…
「…う、あぁっ…!」
 思考を遮るように痛みが降りかかる。腕の時と違って、今度は刺された後、ご丁寧にグリグリと抉られた。
「ククッ…気を逸らすなよ。詰まらないじゃないか」
 言いながら、尚も深く、抉られる。
「苦痛も、逡巡も、躊躇も、全て全力で感じ取ってくれなきゃ、面白くないだろう?」
 クスクスと、いっそ、まるで無邪気な笑みを浮かべて。本当に、他意は無いとばかりに。
 返事の代わりに、何度も何度も頷く。目を、唇を、ギュッと閉じたまま。
「フフッ、痛そうだな。ほら、こっちを向けよ。辛いか?」
 どうにか目を開けてルビーの相貌を見つめ、無言で頷く。
「フフッ、だろうな。辞めて欲しいか?」
 …それはゲームを、だろうか。抉るのを、だろうか。だが、聞く余裕もないままに、小さく首を振る。
 それに魔王は、満足そうに笑みを深くした。
「クク…上出来だ。玩具としては随分と出来が良いじゃないか」
 オマケとばかりに、更に一度、深く突き刺されてから。ようやく、刃を引き抜かれた。
 痛みから解放されて、貪るように、荒く、小さく、息をつく。
 それを魔王は純粋に愉しそうに眺めて、続けた。
「さて、オレの番だな。そうだな…流石にここまで深く切り込まれては邪魔だが…まあ、これ以上は切り込めまい」
 ふむ、と一瞬だけ考える振りを見せた後。
「そうだな…そこの邪魔なボーンも取っておくとしよう」
 カタン、と、ルークが取られると同時に。再び、石材に重みが増す。
「く、ぅっ…!」
 重み自体はまだ大した事はない。
 が、傷口が歪に潰され、或いは開き、刺激され、新たな痛みの渦が生まれる。
「さあ…お前の番だぜ?」
 告げられて、まだ息も荒いままに、盤を見る。何処を動かす?何処を…
 一番良いのは、最小限の動きで、キングを取る事だろう。だが、魔王も素直にそれを通す訳がない。
 障害物を一つ一つ取り除いて、考えられる中で少しでも早くキングを取るしかないのだ。
 だが、流石に連続で先程のような痛みは辛い、避けて通れないとしても、せめて少しだけ休憩を…
 そんな、逃げのような事を思ってしまったせいだろうか。大きな見落としを、してしまった。
「ナイトを、左前に…」
「ふぅん?」
 おかしげに、魔王が鼻を鳴らす。
「では、道が開いた事だ…ビショップで、クイーンを頂くぜ」
「あ…あぁあっ……!」
 加えられた重み以上に、クイーンを取られたというその事実に、反射的に絶望にも似た声が漏れる。
 やってしまった、というには、余りにも大きすぎる失態。
 見落としなんて言う、初歩的なミスで、最強の駒を失ってしまったのだから。
 すぐにクイーンに昇格できそうなボーンは、現在いない。丹念に魔王がボーンを排除し続けていたからだ。
 地味な動きだが、ボーンの排除は結構有効なのだ。この穴を埋めれるかどうか…いや、それよりも…
「さあ…お前の番だぜ?どうする?」
 ルビーの相貌が、残酷な愉悦の色に煌めく。魔王の言葉の意図は解ってる。ビショップを取るかどうか、だ。
 隣にはキングがいる。ビショップの位置は他の駒の射程内に入ってないから、取っても問題はない。
 むしろ取らずにこんな奥地を好きに荒らされる訳にも行かないし、純粋にチャンスでもある。
 だが、先程の痛みがまだ残っている。いや、今の付加された重みで新たに足された痛みが、というべきか。
 …だ、が。
 数度、深く、荒く、息をする。深呼吸しようとしてるのに上手く行かないのだ。
「………キングで……ビショップ…を………」
 意志の力だけで、声を絞り出す。その結果を、よく解った上で…
「フフッ…そうすると思ったよ」
 とてもゆっくりと、魔王が駒に手を伸ばす。そして、チラリ、と一瞥して。
「…へ、え…。ククッ…おめでとう、当たりだ。目、だぜ」
「…あ、ぁ……」
 思わず、声が漏れる。当たりも外れもあったものではないが、少なくても結構な外れを引いてしまったのは間違いなかった。
「さて…勿論、覚悟は良いな?」
 頷けない…が、固く目を閉じて、待ちの姿勢を取る事で、応えの代わりにする。
 閉じた視界の先に、近付いてくる気配が、した。
「…アテム。目を開けな」
 …恐る恐る、眼を開けると。とても綺麗な、ルビーの双眸。
「良いか?目を閉じるんじゃないぞ」
「…!?」
 愕然とする。その意味が、解るからこそ。
 …ああ…なんて。なんて、まっすぐな、残酷さだろうか。
 胸に去来するのは、後悔だろうか?それとも、悔しさだろうか?
 この期に及んで、受け容れるしかない、自分自身に対しての。
 ふるふると、瞼が震える。反射的に閉じようとする身体を、意志の力だけで無理矢理押さえつける。
 段々と呼吸が荒くなるのを感じながら、じっと待つ。1秒が10秒にも感じた。
「あ…ぁぁあ……」
 冷たく輝く刃が。少しづつ、少しづつ、近付く。
 魔王がわざとゆっくりそうしているのか、それともオレがそう錯覚しているだけなのか。
 ようやく到着した刃に、プツン、と何処かで聞こえた後。
 燃える程の痛みと、焼けつくような暑さが、脳内を駆け巡り。
 朱に染まった視界の中で、世界は、反転、した。


「…ぅ、…ぁ…?」
 のろのろと、眼を開ける、と、左目に激痛が走った。
 何故なのかすぐには解らず、混乱していると。
「やっと起きたか。まったく、このくらいで気絶するとはな」
 侮蔑の色を孕んだ声音で、声が降ってくる。
 その意味を辿って、ようやく、何があったのかを思い出した。
「さて、と。ゲーム中に勝手に気絶した罰を受けて貰おうか。
 そうだな、その刺さったままのナイフを、オレが満足するまで自分で突き刺す事が出来たら、許してやるぜ」
 愉し気に、内容とは裏腹に軽やかに告げられる。
 罰があるなど聞いていない、が、抗う術はなかった。
 震える手で、ナイフを探す。軽く手が触れただけで、激痛が増した。
 これを?更に深く刺す?自分で?
 チラリ、と、思わず魔王に視線を向けるが、そこにはただただ愉しそうな魔王の姿しかなかった。
 数度、意図して大きく息をする。グ、と歯を噛みしめて手に力を入れると、耐えがたい痛みが駆け巡った。
「あ…あぁあああっ…!!」
 痛みを堪えようと、顎に力を込めたのも、何の意味も為さなかった。
 ひたすらに駆け巡る痛みを堪えて、必死に手に力を込め続ける。
 まだか?まだなのか?祈りにも似た想いを抱きながら魔王の言葉を待つが、魔王はまだ何も言わない。
 早く。早く。お願いだ、どうか…
 懇願しかける気持ちに負けそうになった刹那。ようやく、魔王がオレからナイフを引き抜いた。
「ククッ…良い見せ物だったぜ。さあ、ゲームを再開しようじゃないか」
 チロリ、と、魔王がナイフを舐める。その様は妖しくも美しかった。
「さて、オレの番だな。ふむ…ビショップでそこのビショップを取っておこう」
 クスリ、と言うと同時に。またズシ、と重みが増した。
 まだたったの25kg、たったの。
 だがこれだけあちこちに傷を負った状態では、それなりにジワジワ来るものがあった。
「さあ、次はどうする?」
 尋ねられて、盤面を見る。打てる手はないか?打てる手は……
「…ルークで、ボーンを…」
 最短距離で、と思っても、何度見ても悲しいくらいに、現状を大きく変えようはなかった。
「フフッ、そうか。さて、と…ああ、なんだ。指だそうだ」
 クス、と、魔王が告げる。どうやら余りお気に召さなかったようだ。
「ふむ。数本、切り落とすのも良いが…今回はこうしようか」
 そう言うとおもむろに近付いてきて。ス、と、優雅に手を取った。
 そして、触れる冷たい感触。
「く、ぅ…」
 痛い、が、先程までと比べたら、全然優しいものだ。目を閉じて、嵐が過ぎるのをじっと待つ。
 その間も魔王は、丹念に丹念に、指を切り刻み続けた。
「フフ…こんなとこにしておこうか」
 その言葉に、のろのろと自分の指を見る。そこには何本も何本も、赤い線が走っていた。
「さて、今度はまたオレの番…そうだな、ビショップでそこのナイトを取ってやろう。フフ、サービスだぜ?」
 そして加わる重みに、小さく呻く。
 魔王の言葉の意図は、すぐに解った。ビショップを取れる位置に、ボーンがいるのだ。
 攻めて来たビショップは、白マスの方のビショップだ。
 このままなら、切り込まれた所で、チェックメイトされる事はない。
 だが…無闇に荒らされる訳にも、いかなかった。それに手駒で負けてる以上、削げる物は…削がねば。
「……ボーンで、ビショップを……」
 駒を手に取った瞬間、魔王の意図が解った。丹念に傷付けられた指先が、駒を持った瞬間痛んだからだ。
 しかも、よく磨かれているせいで滑り易い…できるだけそっと持ちたいのに、血で滑らないよう、余計に力を入れなければならなかった。
 当然、それだけ余分に痛む。
 そんな姿を、魔王は愉しそうに見つめていた。
「ふむ。今回は、と…。成程。また足だ。今回は反対側にしてやろう」
 近付いてくる魔王を、じ、と待つ。僅かに鼓動が高鳴るのを、悟られないようにしながら。
 つと、と刃が触れる。だが、すぐには切られず、暫く刃で撫でられた、器用に肌を割かないままに。
 更に鼓動が高くなる。
「フフ、我慢してるのか?そうやって冷静な振りをされると、崩したくなるな」
 つつ、とさらに撫でられて。ザワザワする。つ、と、汗が一筋、垂れた。
「フフ……」
 見透かしたような、笑みを浮かべて、一呼吸の後に。ザクッ、と、刃に侵食、された。
「くっ、あっ、あぁあっ、うっ」
 間断的に、悲鳴が漏れる。ザク、ザク、とばかりに、何度も刃を立てられて。
 もはや数度目とはいえ、そう慣れれるものでもない。
 肉が、ミンチにされてるんじゃないかと錯覚する程の、感覚。何度も喘いでいると、一層深く痛みが増した。
「……っ……!!!…っ、っ、…あぁ………っ…!!!」
 奥を、抉られている。そう、解る。視界がチカチカとする。視界の朱がより深くなる。
「…あ…あぁ…! ま…魔王…!魔王!魔王…!!!」
 呼ぶ理由も、意図も、解らぬままに、叫ぶ。それが痛みを堪える唯一の手段でもあるかのように。
「どうした?ギブアップか?」
 嘲笑交じりに言われて、必死に首を横に振る。
 これだけの苦痛を与えられているのに…いや、これ以上の苦痛を与えられると解っているのに、だ。
 それでも。その先を望まずにはいられないのだ、終わりの先の、そのゴールを。
 我知らず、涙が零れる。透明な涙と、真紅の涙が。
 せめて、早く終焉を。早く。それは逢瀬すら叶わなくなる事を意味する事だけれど。
「あ…あぁあっ………!!!」
 一際深く刺され、そして、一気に引き抜かれる。勢いで、朱が幾筋か散った。
「フフ…中々良い悲鳴だったぜ。さあ、続けよう…オレの番だ。ここは…そうだな、ルークを一つ前へ」
 荒い呼吸を、少しでも落ち着かせようとしながら、盤を見る。今回は駒を取られなかったのは幸いだった。
 少しばかり思案する。どうすれば少ない手でキングを取れるかを。
 だが。やはり一足飛びとはいかないようだった。
「…ナイトを、左前へ」
 この位置なら、ボーンに攻め込まれて昇格されても、ナイトで取れる。
「ふぅん、成程。…今の位置でも、二手後に昇格しても、取られる、か。なら、ルークをクイーンの前へ」
 …白ルーク、黒ボーン、黒ルーク、の並びから。
 白キング、白ナイト、白ボーン、黒ルーク、黒クイーンが一列に並んだ。
 ルークでボーンを取ってもルークでルークを取られる事はなくなったが、クイーンがボーンを取りに来てもビショップでクイーンを取れるから、わざわざクイーンを無駄にしないだろう、との期待は無くなった。
 ルークでボーンを取りに来て、ルークがビショップに取られても、ビショップをクイーンで取ればよいだけの事。
 ルークとクイーンでは重みが全く違うのだから。そして、そのクイーンを射程に収めれる駒はいない。
 ならば、せめて。
「……ナイトで、ボーン、を………」
 小さく、告げる。せめて次は、少しでも痛みの少ない所であるよう、願いながら。
「フフッ…数だけは並ばれた、か。さて、今度は…。へえ、また腕か。運が良いな、中々急所に当たらない」
 クス、と、魔王が笑いを漏らして近付いてくる。そして、与えられる、痛み。
 思考が鮮血に染まる。その中で、実に愉しそうな魔王の嗤い声だけが、聞こえた。
 この痛みが、魔王に通じる為のモノだと言うのなら。
 魔王に、自分を認めさせるのに必要だというのなら。
 喜んで受けよう。だが、それすらも幻想だったなら……
 …人は、意味あるものはある程度耐えれても、意味のないものはロクに耐えられないものなのだ。
 ややあって、鮮血の洗礼が終わり。ようやくマトモに呼吸ができるようになる。
 少しは、だが。
「さて、続けようか。ルークでボーンを取るとしよう。そしてチェックメイト、だ」
 言うが早いか、また重みが増した。傷口が押されて、足がまた痛みを訴える。
 それに僅かに呻くだけで、その痛みを何とか堪えた。
「さあ、お前の番だぜ」
 魔王が誘う。予定調和のその先を。解っているが、方法が、ない。
「…ビショップで…ルークを」
 ボソリと言うと、魔王はクス、と笑んだだけで、駒を確認した。
「…ほう。喜べ、久々に新しい場所だぜ。腹、だそうだ」
 愉しそうな物言いで、魔王が告げる。新たな痛みが与えられる箇所を。
「さて…今度はどんな悲鳴を聞かせてくれるかな?せいぜい良い声で鳴けよ」
 ルビーの双眸を愉悦に煌めかせ、魔王が近付いてくる。
 もう少しで何もかもが終わるのかもしれない、と思うと、いっそ、可能な限りスローにしたいくらいだった。
 数度刃を当てられて、弄ばれた後。一気に、刺された。
「…っ…ぐっ、がっ…、…っ、…があああっ…!」
 熱い。何もかもが。割かれた腹から湯気が出るんじゃないかと思う程だ。
「フフッ…良い声だぜ……」
 嬲るような声も。まるで膜超しか何かのようだ。聞こえてるのに、他人事のように現実味がない。
 ただひたすらに、熱い。痛いよりも、熱いのだ。冷たく輝く銀の刃すらも、何もかも。
 ああ、魔王。耐えて耐えて耐え抜いたなら。魔王は認めてくれるのだろうか?
 お願いだ、魔王……この痛みを、苦しみを、意味のないものにだけは、しないでくれ。
 意味を与えてくれさえするのなら、幾らでも耐えるから……
「うあっ、うあっ、ぎっ、ぎぃいい……っ!」
 取り繕う事も出来ずに、叫ぶ。ひたすらに。それしかできない。
 それしか…許されてないのだ。
「ククッ…良い姿だったぜ。さあ、オレの番だ…クイーンでビショップを取る。再びチェックメイトだ」
 息を整える間もなく、足される重み。まだ40kgとはいえ、そろそろ、1+1=2ではなくなる頃だ。
 そろそろ不用意に取られるのは不味い。
 必死で盤面を見る。間違えるな…間違えるな。
「ナイトを、キングとクイーンの間へ」
「ふむ。相打ちしても旨味は無いな。クイーンを更に奥へ。再びチェックメイトだ」
「では、キングを左前へ」
「攻めきれないな。なら、クイーンでルークを取っておこう。
 ズシリ、と更に重みが増える。だが、気にしてられない。
「ボーンを前へ」
「クイーンでボーンを取ろう」
 更に足される、重み。50kgの重みに、思わず息が漏れた。
「では、ルークをクイーンの前へ」
「…ふむ。チェックメイトしてもルークが立ち塞がる、か…では、クイーンでボーンを取ろう」
「再びルークをクイーンの前に」
「フフ、仕方がないな。クイーンでルークを取ってやるぜ」
 再びの重り。とうとう…60kgだ。だが、重みなど所詮おまけでしかない。
「……ボーンで、クイーンを」
「ククッ、随分頑張ったじゃないか。さて、と…」
 愉しそうに駒を確認した魔王は、ニィ、と、笑みを濃くした。
「フフッ、おめでとう。肺を当てたぜ」
「…あぁ……」
 思わず涙が零れる。その先を予感して。
「フフッ…流石に一味違うだろな。どうする?辞めて欲しいか?」
 問われて、力なく首を振る。唇から血の気が引くのが解った。
「ククッ…上出来だ」
 魔王がゆっくりと近付いてくる。刃を当てたと思ったら、顔を覗き込んできて、一言。
「アテム。オレを見な」
 視界に入れてはいたが、はっきりと合っていなかった焦点を、改めて合わせる。
 すると魔王は満足そうに笑みを浮かべた。
「目を逸らすなよ…そのまま見ていろ」
 その言葉に抗う事も出来ず。口元に力を込めて、魔王を見つめる。
 今、オレはどんな表情をしていると、魔王に映っているのだろうか。
 そして。つぷ、と、刃が入ってくる感触がした。
 唇を一層噛みしめて、必死で悲鳴を堪える。そうでもしないと、魔王を見ているなど、とても無理だった。
 何処か他人事のような刃の感触と。決して他人事ではない痛みと。
 胸から何かこみあげて来て、思わず吐き出す。鮮血の塊を。
 呼吸が上手くできない。思わず、手が何かを求めて空を彷徨った。
「フフ…死ぬなよ?まだゲームは終わっちゃいないんだ。お前だって最後までやりたいだろう?」
 言外に、終わるまで死なせない、と言われる。
 そして痛みも苦しさも、それ以上強くも弱くもならずに、静止した。息苦しさも、そのままに。
「さて…この先は暫く膠着するかな」
 クス、と笑みながら、魔王が手を打つ。
 風の抜けるような音の息を漏らしながら、オレものろのろとそれに応え続けた。
 一手、二手、三手……
 三つの駒を取り、二つの駒を取られた。当然その分傷も増え、重りは65kgに達した。
「フフ…よく頑張ったじゃないか。お前は残り三つ。オレは残り四つ。だが…
 ここでルークでナイトを取れば、ルークがキングに取られて互いにキングの他はボーンしか残らない。
 残念だがドローになりそうだな。折角ここまで頑張ったのにな」
 それは、全てが無為に帰すという事。この痛みも、苦しみも、何もかも。
 魔王も手に入らず、魔王のモノになる事も出来ない。
 オレがこのまま死ぬのか、助かるのかは、解らないが…
 ポロポロと、涙が零れる。それを魔王は暫く愉し気に眺めていたが、ゆっくりと口を開いた。
「とはいえ…ドローじゃ詰まらないな。お前にも勝ち筋を残してしまう事にはなるが…オレも勝ちを目指し続けよう。
 但し、チャンスを与えるんだから代償は貰うぜ?お前が自分の手で心の臓を貫けるのなら、勝ち筋を残してやろう」
 自分、で…?
 ノロノロと考えるより先に、頷いていた。
「フフッ…成立だな。大サービスだ。勝ち筋は自分で考えるんだな」
 そう言って魔王は、ナイトを取らずにキングを追ってきた。そしてチェックメイト、と、一言。
 大分動きの鈍くなった頭を、必死に働かせて、歩を進める。
 回避、チェックメイト、回避、チェックメイト……
 そうこうしてる内に、キングがボーンの所に辿り着き。ルークから間接的に守られる。
 ややあって。
「…チェック、メイト……」
 オレのナイトが、キングの射程に、入った。
「ククッ。とうとう辿り着いたか。まだ逃げれるが…ふむ。…いたちごっこにしかならなそうだな。
 …フフ。おめでとう。お前の勝ちだ」
 魔王が敗北を認める。負けたというのに、何処か楽しそうだった。
 そんな魔王を、やや信じられない気持ちで、眺める。
「さて…解ってるな?アテム」
 悠然と、魔王が笑みを浮かべる。その姿は、まるで彫刻のように美しかった。
 コク、リ、と、糸が切れたように。頷く。全身が痛いのも、呼吸が上手くできないのも、相変わらずで。
 身体の何処にも力が入りやしない。それでも。
 辿り付けた、という事が、この上なく嬉しかった。それが、終わりを意味するとしても。
「さあ…見せてみな。お前の覚悟を。その思いを。見事成し遂げたなら、約束通り、認めてやるよ」
 渡されたナイフを。ノロノロと受け取る。魔王の姿を、この目に刻み付けながら。
 …ああ。これが最後の鍵、だ。
 刃を、自身に向ける。教えられなくても、場所は解っていた。鼓動が、自身の場所を教えてくれているから。
 深く、息を吸って。
 終わる為の鍵を、この身に差し込ん、だ。
 朱が散る。命の欠片と共に。命を乗せたまま、散っていく。
 嗚呼。
 オレは魔王の中に、どれだけ残れるのだろう?どれだけ刻み込めただろう?
 魔王は約束してくれた。認めてくれると。その記憶は、想いは、いつまで色褪せないのだろう。
 絶対の永遠はない。それでも。可能な限り、それに近くあって、欲しい……
 それを確かめる事も、見守る事も、できないのだけれど。
 ああ。
 朱が舞う。オレの魔王への、想いを乗せた華、だ……
 崩れ落ちる刹那。
 僅かに温かみを感じた気がし、た。



 ――静寂の戻った部屋で。
 魔王が一人、熱のない身体を抱きしめている。
 何処か愉しそうに、緩く笑みを浮かべたまま。
 何を語る事も無い。それを優しく撫でるでもない。
 ただ無言で、一つの静止画のように、抱き続けていた―――






 The End.