ナイチンゲールは朱に酔う

 魔王の髪を。そっと撫でた。
 硬質に見えて、柔らかいその髪を。とても手触りの良い、それを。
 …オレと瓜二つの、その髪を。
「どうした?」
「…ん…綺麗だな、って」
「昨日今日見た訳でもないだろうに…何を今更」
 クス、と笑むもう一人のオレを。眩しく思う。
 無意識の傲慢さも、全てに余裕があるような態度も、何もかも。
 そっとその手を取って恭しく口付けると。もう一人のオレは、不思議そうに首を傾げた。
「魔王は…宝石みたいだ」
 本心から、呟く。
 大切なモノ。得難いモノ。至高のモノ。
 そして…この上なく、美しい、モノ。
 単に、造作の事ではない。それを言ったらオレの事も指し示す事になってしまう。
 魂の在り様が、美しいのだ。
 気高くて、媚びなくて、そして……
 懐のナイフを、唐突に取り出して、魔王に向けてみる。
 急所の一つである、その首へ、ピタリと。
 だが魔王は。
 欠片も動じずに、薄く笑みを浮かべただけだった。
「…唐突だな。何の冗談だ?」
 脅すような低音でも、茶化すような声音でもない。
 ただ、おかしげに誰何するだけで。
 そこには油断も無く、怯えも無く、勿論狼狽えるなど程遠く。
 近いとすれば、できもしない事に挑む虫か何かを見るような類の面白さ、だろうか?
 諦めを乗せて、肩を竦める。
「…ちょっとした悪戯心、さ」
 返答に魔王は。さらにおかしげに喉を鳴らした。
「悪戯で命を狙われるとはな?」
「動じなさすぎる魔王が悪い…崩してもみたくなる」
「へえ?なら、これみよがしに驚いてやれば満足だったか?」
「…まさか。このくらいじゃ驚かないだろうとは思っていたし…期待もしていた」
「なら、何を望んだ? …ああ、仕置きでもされたかったか?」
 魔王がオレの手を取って。軽く指に歯を立てた。
 思わず、片目を伏せる。
「…っ……」
「ククッ。虐めて欲しいなら、素直にそう言えば良いものを」
 わざとらしく魔王が言う。なんとなく悔しくなって、再度首に刃を当てた。
「…本気だったら、どうする?
 つ、と、軽く力を込める。刃に触れてる部分から、つと、と、僅かに赤い雫が垂れた。
「さて…お前にそんな気があるとも思えないが」
 痛がる素振りすら見せず、あくまでも余裕の構えを崩さずに、魔王が言う。
 それは何処までも事実で…だからこそ、悔しくて。
 だが、何を言う事もできずに赤い雫を見詰めていたままの筈が…いつしかそれに心奪われた。
 朱。命の彩。命の欠片。命の印。
 思わず、唇を寄せる。
 紅い味。魔王の味。魔王の……
 嗚呼、そうだ。
「まお…う……」
 舐め取る傍から、少しづつ滲んでくるそれを舐めながら。その名を呼ぶ。
 まるで、舐める程に愛しさが募るようだった。
「…相変わらず、節操がないな」
「だ…って……」
 美味しいのだ。そして、嬉しいのだ。
 命の欠片を、口にする、という事が。その事実が。思わず、意図せずとも昂ってしまう。
 この魔王の血を口にできる者が、この世にどれだけいるというのだ?
 オレだけが、その権利を持っているのだ。
 そんなオレを、魔王は。侮蔑するでも、嫌悪するでもなく、ただ眺めて。
 ニヤリ、と、笑みを浮かべた。
「やはり、仕置きが必要なようだな」
 ナイフを取られて、逆に押し当てられる。
 恐怖を僅かに感じなくもなかったが…それ以上に、何かを期待するものがあった。
「フフ…まずは、お返し、かな?」
 クス、と笑みながら、首筋をナイフで撫でる。
 冷たい感触に、恐怖と期待がないまぜのまま湧き上がる。
 そのまま切ってくれ、と、昏い欲望を込めた瞳で、魔王を見上げれば。
 魔王は見透かしたような笑みを浮かべたまま、焦らすばかりで。
 懇願し掛けては留まり、懇願し掛けては留まる。
 そんな内心すら見透かしてか、明らかに遊んでいる魔王に悔しく思いながらも。
 敗北、の手を取るしか無かった。
「…魔王…余り、遊んでくれるな…」
 悔しさを滲ませつつ、抗議する。
 切るのか、切らないのか、焦らされるのは御免なのだと。
 最後の虚勢を、形ばかり張って見せると。
 魔王は口許だけ、笑みを深めた。
「相変わらず、素直じゃないな」
 その言葉に、視線だけ逸らす。下手に首ごと動かして、ウッカリで切れるのは御免だったから。
「さて…こっちには素直になるかな?」
 く、と、強く押し当てられたかと思うと。スッ、と、流れるように切られた。
「…っ……」
 片目を伏せて、軽く息を飲む。激痛には程遠い、軽い痛み。
 それに呼応して、頭の芯に軽い痺れが走った。
「フフッ、お返し、だ」
 耳元で、魔王が愉し気に囁く。その声にすら、思わずゾクリとしかけたら。
 追い打ちを、かけられた。
「どうした?欲情でもしたか?」
「だ…れが…」
 否定する、が、フルフルするのは止めようがなくて。
 クス、と笑われる。
「クク…素直になるには、まだ足りんらしいな」
 その言葉の意味を理解するより先に。足に痛みが走る。
 切られたのだと、遅れて、理解して。ぎゅ、と目を閉じた。
 痛いだけではない、何かが確かに混じっているのだが。
 敢えてそれに背を向ける。
「まあ良い…別に急がないしな。時間も、場所も、沢山ある」
 それは、敗北宣言など時間の問題なのだという事。
 それは確かに、その通りで。拷問される者には死と自白の二択しかないのと同じくらい、明らかで。
 それでも。
 素直にそれを認める事はできなかった。
 眼を開けて、フイ、と横を向くと。
 ふむ、と。魔王は口許を緩めると、ナイフを持ち直して。また遊び始めた。
 近付けては離し、近付けては離し。
 時に強く押し当てられたり、横に滑らすと見せかけられたり。
 解っているのに、筋肉が勝手に緊張と弛緩を繰り返してしまう。意志に反して。
 悔しいとか、腹立たしいとか、思うのに。それでも。
 もどかしさが段々強くなる。早く、と願ってしまうのだ。
 それこそが、悔しいのだというのに。
「…くっ……」
 奥歯を噛みしめる。認めたくない。見透かされたくない。
「どうした?そろそろ焦れて来たか?」
 挑発するような物言いに、反抗心が湧き上がる。
「…言った筈だぜ、余り遊んでくれるな、と。…お前の性格の悪さは、よぉく、知ってるけどな」
「フフン、お前よりも長く年月を数えているんでな…多少性格が歪んでも仕方あるまい?」
 無垢なるままに散ったオレと。人の暗部に触れ続けた魔王と。
 考えてみれば致し方ないのかもしれないが、そうと割り切れるものでもなくて。
 思わず、顔を逸らす。
「ふむ。では望み通り、どっちかにしてやろう。選べ…どっちが良い?」
「…っ……」
 こい、つは……
 歯ぎしりする。だから…嫌いなんだ。
「ほら、答えな。折角、選ばせてやると言ってるんだから。お前が望む方を叶えてやるぜ」
 その手の質問が一番苦手なのだと知っているだろうに…いや、知ってるからこそ、か。
 沈黙する。が、それで流せる訳が無い事も、身に染みて知っている。
 沈黙で幾ら時間が経とうと、魔王は話を変えたりはしない。
 嘘をつけば、嘘と知りつつ、それに応える。そういう、男だ。
 解ってる。解ってるからこそ…どっちに転んでも負けなのだと、嫌が応にも知らされる。
 嗚呼。
 叶わない、叶わない、叶わない。
 悔しくて涙が出そうな程に。
 それでも、あと一歩、の壁が、どうにも高くて…高すぎて。
 泣きそうな顔で、魔王を見つめる。喉がつっかえて…喉がとても痛かった。
 それを見て、魔王が、呆れたように苦笑にも似た笑みを浮かべる。
「相変わらず強情だな。仕方ない…言い易くしてやろう」
 言いながら魔王がまたナイフを持ち換えて…使い方が、変わった。
「…あっ……」
 揶揄うような、脅すような、遊びから。明らかに扇情を誘っている、焦らしへと。
 甘い疼きが、生まれ掛けては消え、生まれ掛けては消え。
 火種だけが少しづつ残され、燻り、波紋が少しづつ広がっていく。
 さざ波はうねりへ。全てを呑み込み、流す、それへと。
「…ほら。言ってしまいな」
「…う…く……」
 嗚呼。
 ダメ、だ。
「魔…王……頼む……」
「…何を?」
「…………」
「言わなきゃ解らんぞ?」
「…嘘吐きめ……」
「さて、何の事やら? それより、話を逸らすな」
「…く……」
「さあ、何を頼むんだ?」
「…ぉき…してくれ……」
「…聞こえない」
「……仕置き!して、くれ…!」
 怒ったように、叫ぶ。精一杯の、ねだり、だ。
 魔王がおかしげに喉を鳴らす。
「…仕置きをねだるような態度じゃないが…まあ良い。及第点だ…よく頑張ったな」
 褒められてるのか何なのか。
 ああ、だが、そんな事はどうでも良い。
 やっと貰える、との期待が、全身を支配する。
 早く…早く。
 そんな思いを知ってか知らずか、クス、と笑みを浮かべて。
 ゆっくりと、肌を割かれた。
「あっ、あ…あー!」
 ゆっくり切られた方が、痛いのだ。恐らく解っててやったに違いない。
 だが…
 甘い痺れと疼きが、広がる。
 思わず、魔王の袖に手を伸ばし、それを掴む。
「あ…は……」
 呼吸が荒いのは。果たしてどちらのせいか。
「…フフ。このくらいじゃ仕置きにはならなさそうだな」
 言うが早いか、更に切られて。袖を掴んだまま、叫び声を上げた。
 呼吸を整える間もなく、更に切られて悲鳴をあげる。
 それを幾度も繰り返される内に。頭の奥がジンジンとして。
 思考が段々曖昧になっていく。いや、感覚も、望みも、何もかも。
 ただひたすらに。痛くて、叫ぶ、それだけなのだ。
 他を考える余裕は何もない。何も。
「…良い姿だな」
 嘲るように、言われると。髪を掴まれて、唇を奪われた。
 酸素を求めて、喘ぐ。
「余裕も、思考も、全て奪ってやる。偽りも、誤魔化しも、できないように」
 降ってくる言葉すら、何処か遠い。
 …ただ。
「魔…王……」
 その体を求めて。抱き付く。
「魔王…魔王…魔王…ああ、魔王……」
 うわごとのように、何度もその名を繰り返し。ひたすらに、求める。
 嗚呼……
 もっとだ。もっと……
 魔王も、痛みも、まだ足りない。全身で感じたい…その全てを。
 ふ、と、眼に。最初に自身が切りつけた傷が目に入って。思わず唇を寄せる。
「…んっ……」
 とうに血は止まっていたが。それでも。皮膚一枚分奥に触れられるという喜びが。
 嬉しくて、嬉しくて。
「魔王…欲しい……もっとだ、もっと……」
 無意識に、囁くと。
「やっと素直になれたか」
 クス、と、再び切られる。
「あぁ…っ…!」
 しがみついたまま、叫ぶと。ゆっくりと身体を離された。
 何故なのか解らなくて、縋ろうとすると。
 笑みを浮かべたままの魔王に制止されて。戸惑っていると、魔王が傷口にそっと舌を寄せた。
「んんっ…!」
 魔王の舌の感触に、思わず声が出る。
 舐め取られてると言うよりも、わざと舌を差し込まれているような、痛みに。
 思わず神経が集中していると、魔王がそのまま、再度口付けて来た。
 口内で、自身の血が交感される。
 オレの血…オレの。
 魔王の舌を伝わって、オレへ。オレの舌を伝わって、再び魔王へ。
 実際には、そんな少量の血の味など、いや、存在など、唾液と混じって解り様がない。
 だが、その事実こそが脳内にビジョンを連想させて、その連想が昂らせるのだ。
「ククッ…自分の血は美味いか…?」
 問いかけに、小さく頷く。それに、魔王は満足気に笑んだ。
「…舌を出しな」
 意図が解らないまま、素直に舌を出すと。グイっと掴まれて、更に伸ばされた。
 何を…と思っていると。舌に、ナイフを当てられた。
「…!?」
 僅かに戸惑う様まで、魔王はおかしげに見つめて。そのまま、軽く切られた。
「んんー!」
 舌を掴まれたまま、悲鳴を上げる。それを塞ぐように、再度、口付けられた。
 傷口を、丹念に舐められる。先程の間接と違って、今度は直接、血がやりとりされる。
 舐められてる度に感じる痛みと、何とも言えない感覚。
 意識の全てが口内に集中して、他の全てを忘れるような、感覚。
 高まる、高まる、高まる…。
 際限なく。どこまでも。
「ん…n……ん……」
 ようやく解放されて。ぷはっと息をつく。
 絶え絶えの呼吸の中で、それでも。息が整うのも待てずに、縋りつく。
「魔…王…魔王…魔王……」
 欲しい、欲しい、欲しい。
 愛しくて堪らなくて、与えられる全てが嬉しくて、尊くて、堪らない。
 愛しさの数だけ欲しくなる。痛みも、快感も、全て同列に。
「くれ…もっと…魔王……」
 その目を覗き込んで、ねだる。
 与えられるなら、代わりに何を支払っても良いとばかりに。
「フフ…仕方ないな」
 そう言いつつ、魔王が、愉し気にあちこち刻み始める。
 もう、脅す真似事もしない。焦らす素振りも見せない。
 ただただ思いのままに、その刃を滑らせる。
 いっそ無邪気な様で。何に躊躇する事もなく。
 その中で。幾度も幾度も悲鳴を上げながらも、ただただ嬉しさを感じていた。
 魔王が。オレの為に、時間と手間を掛けてくれている事に。
 魔王が。オレの願いに応えてくれているという事に。
 オレの為に与えてくれるという事を。愛だと感じるから。
 痛み以上に嬉しくて仕方が無いのだ。
「魔王!魔王!魔王!あり、が、あああっ、あり…ああ…魔、王…!」
 何を言いたいのか、自分でもよく解らぬままに。ただ、叫ぶ。
 それだけが、正気を保つ方法でもあるかのように。
 全身で魔王を感じて。全身で魔王に縋り。全身で魔王に請う。己の全てを…
 頭の中が、痛みと、魔王の事だけで一杯で。他には何もなくて。
 この上なく幸せなのだと伝えたくて、だが。
 何も解らない。何も言えない。
 ただ、それでも。手を伸ばす。縋り付く。離したくなくて。もっと欲しくて。
 ああ…きっと今、オレは、混乱しているのだ。
 思考に纏まりが無くて、脈絡が無くて、今頭の中を覗かれたら、きっと笑われる。
 …それでも良い。
 嬉しいと、幸せなのだと、感じているのは事実なのだから。
 壊れた楽器のように、魔王の名を繰り返しながら。
 終わりの見えない営みに、ただ、呑まれ続けた。