湖畔夜月

 闇に誘われて、外へ出た。
 冷たい空気が、肌を指す。それは、気温のせいだけではなかっただろう。
 前方に見知った顔を認めて、声をかけた。
「散歩か」
 別段、答えを望んではいなかったが、聞いてみた。。
「そんなものです」
 驚いた素振りも見せずに答えた蔵馬は、ふっと微笑んで言った。
「一緒にいかがです?」
「…フン」
 別にどうでもよかったが、暇だったので付き合う事にした。
「いい、夜ですね…」
「静か過ぎて気にいらん」
「住宅地ですから」
 他愛もない話をしながら、ゆっくりと歩く。
 蔵馬と、こんな風に外を歩いたのは、随分と久方ぶりだった。
「どこに行く気だ」
「良い所にですよ」
 決して、はぐらかしとも言えぬ答えに、小さく舌打ちしただけで、それ以上問いは重ねなかった。
「いい、夜ですね…」
 繰り返された言葉は、黙殺した。

 どれほどの時を歩いたか。永遠にこの夜は続くのでは、そう思える程の時の後に、そこへたどりついた。
「いい所でしょう?とても静かで神秘的で…」
 そこは、森の中にある湖のほとりだった。
 夜の湖というのは得てして、心に不可解な、恐怖にも似た感情の芽を植えつける。
 引き込まれそうな、その水面が。
 静か過ぎる、空気が。
 全てを拒むような、冷たさが。
 そして何よりも、自分をここに誘った蔵馬の心が。
 心の隙に、何か黒い感情が、入り込む。
「何故、ここに来た?」
「気に入ってるからですよ。ここはめったに人が来ないから、落ちつくもので」
 ジ…と見つめる、目。
「何故、俺を誘った?」
「さあ…何となくですよ、多分」
「いい加減なやつだな…」
 心に、黒い感情が。
 入り込む…その隙に。
「人は滅多に来ないと言ったな。なら、多少騒いでも、咎められる事は無いというわけだ」
 薄く嗤って、蔵馬を地に押し倒す。
「お前は、恐くはなかったのか?それとも気付かなかったのか?こんな処に二人っきりで来る危険に」
 蔵馬は何も答えず、ただジッと視線を返すだけだった。その首に当てた手に込められた力は決して弱いものではないというのに…それでも。苦しげな素振り一つ見せずに、見返すだけなのだ。
「なんだ?抵抗しないのか?このまま縊り殺してしまうぞ?」
「そうですね…抵抗するべきなのでしょうか」
「相変わらず訳の判らんやつだな…聞くような事ではないだろう」
 くすり、と蔵馬が笑う。
「ああ、そうですね…」
 何とも間の抜けた会話だ。舌打ちして、手を離す。
 楽になった呼吸に、蔵馬の表情が一瞬だけ変わった気がした。
 そっと、蔵馬のその細い指が、先程まで自分の手のあった場所をなぞる。
「何だ…やめちゃったんですか」
 クスクスと、可笑しげに嗤う。その響きに、何か不信を覚えた。
「…おまえ?」
 誰何する声は届いているのかいないのか、なおも蔵馬は笑いつづけている。
「おい?蔵馬?」
 何を言おうとしているのかは、自分にも判らなかった。夜のそれより暗い闇の中にいるような錯覚。
 訳も判らず、恐怖にも近い感情を覚えた。
「そっか、やめちゃったんだ…」
 未だにその瞳に可笑しげな光を宿して、自分を見つめる目…それは。知っているそれでは、なかった。
「なら、オレが殺してあげようか?」
 見つめる…魔性の光宿す、その目!!!
「お前は…誰だ?」
「オレ?オレは蔵馬ですよ…それ以外の何者でもないでしょう?」
「お前は、蔵馬じゃない…蔵馬は、そんな目をしてなど、いない」
 そうだ。蔵馬のもつ瞳ではない…そんな、魔性を宿した瞳は!姿も、声も、身を包む妖気も…そのどれもが蔵馬のもの以外ではありえないのに、その瞳に宿る光だけは、違うのだ。
「蔵馬ですよ…オレはね」
 薄く、蔵馬が笑う。その、凄絶な笑み…恐ろしい程の魅力と、そして恐怖!
「オレが、恐い?」
「バカな」
 けれどその声は、確かなものではなくて。
 蔵馬が見透かしたように、にっと笑う。
「知ってる?月には魔力が宿ってるんだよ。狂気を呼び起こす、魔力がね…」
 蔵馬の手が、自分を地に押し倒す。先刻とは全く逆のパターンだ。
 湖の冷たい水に髪の先を浸した状態で、皮肉気にそう思った。
「ああ…」
 自分を見つめる蔵馬が、静かに呟いた。
「お前は、この湖とよく似合うね…」
 見つめられる目に宿る光が微妙に変わったのを見て取り、意味も判らないままに恐怖を覚えた。
 蔵馬が葉の一枚を取りだす。それは、一瞬の後に銀の光を放つ刃に変わった。
 それから連想される事に、体を固くする。けれど、スッと体の上をなぞったそれは、服を切り裂いただけで、体が紅く染まる事はなかった。
「蔵馬…?」
 蔵馬は問いには答えず、急に俺を湖の中へと放り込んだ。
 突然の事で、訳の判らないままに、闇の中へ沈んで行く。口から出た泡が一様に消えるその境界は、さして遠くも無いというのに、水の冷たさに凍った手は、上手く動いてはくれない。
 息苦しさにどうしようもなくなった頃に、引き上げられた。誰の腕かは、確かめるまでもなかった。
 ケホッと、むせる。
 おちついて、抗議しようとして蔵馬をキッと睨んだが、その瞳と目が合ったとたん、声は音となって出る事は無くなった。
 ゆっくりと、蔵馬の顔が近付いてくる。
 蔵馬の舌が首筋をなぞり、ビクッと体が震える。
 …熱い…体が。体が熱を帯び始める。水は凍りそうな程冷たいのに、体は熱いのだ。そしてその熱は水に奪われる間も無く、蔵馬の舌で…あるいは手によって、更に高められて行く。
「くら…」
 意味を持たぬ言葉を紡ぐ。
 薄く目を開けると、蔵馬の向こうに満月があった。闇をはさんで重なっているその二つの影を認めた時、蔵馬に何かが重なって見えるのを見た。
 月の下で映える、それは。月光宿した長い髪の…
 …妖狐。
 ああ、そうか、とまとまらぬ思考でそれでも何となく感じ取り、思った。
 月は、狂気を呼び起こす物。狂気は魔性。ならば闇に連なるものには、その本性を強く表に出させる物。
 そうか、と納得した。
 不安定に思えたその心も、蔵馬でなく見えたその瞳も、狂って見えたその心も。
 …月の、魔力だったんだな……
「くらま…くらま…」
 呼びかける…蔵馬であって蔵馬でない者へ。
 お前が今狂っているのなら、俺も今だけは狂いもしよう。
 お前が今お前でないのなら、今だけは俺も俺を捨てよう。

 その根底も知らぬ想いを抱いて。
 快楽に身を任せてゆく。

 湖は。静寂の中に二人の営みを覆い隠して。
 月の光の中、ただ静かに二人の艶やかなる姿を映していた…