闇の囚人 前編

1.誓い


何を望む事も、無かった。

望まなかったわけではない。望めなかったのだ。

いや――望んだ事は、あった。


それは。



何も望まぬ事。

何もその手に入れぬ事。



それを、自らに課した。



この体は――この生は。

俺ノモノデハナイ……



全ては、『秀一』のものであるから。

だから。



望んではいけない、何も。

手にしてはならない、何も。



それは。

謝罪。そして、贖罪。

慙愧の念に捕われての、偽善……



けれど。

入り込む、光。

隙間に…心の僅かなそれに。



目を瞑っても。

顔を背けても。

脳裏に浮かぶその顔……

何を望む事もすまいと誓った俺が、気付けば思っているその影……



だから離れた。

だから拒んだ。

心はどうしようもなく捕われていたから……

怖くて恐ろしくて。



拒絶の意を伝えた時の彼の瞳――その嵐と静寂を同時に宿したその瞳は。

今もこの目に焼き付いて、いる。





2.湖畔のしらべ



夜の湖畔。

神秘的で恐ろしげな、そこにいた。

そこに何があるわけでもなかったけれど。

ただ、一人になりたかった。

飛影……

声には出さずに、胸の中、その名を浮かべる。

会いたい…それは本当。

会いたくない、それも本当。

心が、どうしようもなく騒いで。

胸が、黒い嵐に掻き乱される。

静かな湖も、心を静めてはくれない。

どころか、その湖面に浮かぶ月の色までもが、心を騒がせる。

耳の奥に、とうに消えた音が甦る。

愛しい、けれど今は刃のようでしかない声が。

きつく、目を、閉じる。

何も見たくはない。

何も聞きたくはない。

何も感じたくはない。

何も何も何も。

俺に与えるな。

目を閉じると身を包む闇。

それに、意識ごと解け込んでしまいたかった。



「蔵馬」

小さな声が、投げかけられる。

ビクリ、と僅かに震えて。

逃げ出す…そこから。

決して振り返る事無しに。

「蔵馬!」

何も見るな。

何も聞くな。

何も…何も。

そこには在るな。



闇の中、見えた光は。

けれど破滅への道に見え……

闇の中、全てを拒み、けれど何かを求めて。

ただ、走り続ける。


闇の向こうに何があるのかは――知らない。





3.交錯


森の中を、ひたすら走っていた。

混乱した意識は、すでに逃げる理由すら留めてはいなかった。

あるのは、恐怖。

けれど、それすら何故かは判らない。

ただ、走っていた。

見えては消える光。

それはまるで未来の象徴でもあるかのようだった。

「蔵馬!」

声が、すぐ近くでする。

反射的にビクリ、と体が強張り、そして、力を振るう。

無意識の内に。

木が滅茶苦茶に伸び、動き、追跡者の足を止める。

そして、また走りだす。

けれどそれは、じきに止められた。

燃え盛る木々、それらによって。

動きが、意識と共に固まる。

どうしていいか判らずにただ視線をさ迷わせていたら、腕を捕えられた。

「蔵馬!逃げないでくれ!」

悲痛気な、その叫び。

けれどそれの持つ響きは心には届かず――

ただ、かぶりを振り、手を振り解こうとする。

「蔵馬……」

哀しげな声を聞いたが最後。

腹部に受けた衝撃を感じる間も無く。

意識は闇に溶け込み、消え去った。





4.緋色の人形



「蔵馬……」

暗い、闇の中で。

そっと、声をかける。

「蔵、馬……」

何の反応も示さぬ、その体を、ギュッと抱きしめる。

瞳に狂気の光こそ宿ってはいないものの、正気でないのは明らか。

何故、と思う。

自分は、ただ拒まないで欲しかっただけだったのに。

ただ、それだけだったのに。

どうしようもなく哀しくて。

そっと、唇を蔵馬のそれと重ねた。


どう、すればいい?

どうすれば…いいと?


闇の中、問う。


答は…でなかった。