華宵

魔界の森の一つに、飛影はいた。
飛影の前にあるのは、湖…底の見えない、無気味なそれ。
「本当に何も見えんな……」
低く、呟く。
しばらくジッと湖を見続けていた飛影は、剣を抜き、スッと自らの手首を浅く切った。
傷口から鮮血が溢れ出す。
飛影は腕を湖の方へ伸ばすと、その深紅の液体が湖に溶け込んで行く様を、しばらく無感動に見つめていた。
湖へと溶け込んだ血は決して多くはないというのに、何故か湖全体が禍禍しい赤に染まって行く。
と、それは見る間に湖の中心の一点だけの色が濃くなってゆき、対照的に湖の端の方から色が元に戻って行く。
そして最後には吸い込まれるようにしてその一点の色も元に戻った。
ヒョォ、と冷たい風が水面を撫でる。それは変わらず不気味ではあったけれど、先程までの不可思議なる影は見出す事は出来なかった。
それまで黙って見つめていた飛影は、湖の色が確かに元通りである事を確かめると、マントを脱いで湖の中に潜っていった。
コポ、、と時折吐き出された息の他には何も見えない湖の中を、飛影は引き寄せられるかのように、迷う素振りもなく泳いで行く。
そして。飛影は、辿りついた。
目的の場所…他より僅かに明るい、その場所に。
そこにあった石を取ると、すぐに飛影は真上に向かった。
息がもう限界だったのだ。
「ぷはぁっ!」
大きく息を吸い込む。半分以上が水の中というその状態では、息を思いっきり吸ったという気持ちには到底なれなかったが、それでも息苦しさからは解放された。
もう潜る事はせずに、パチャパチャと泳いで行く。そして岸に辿りつくと、そのまま倒れ込んだ。
しばらく横たわって体を休めると、飛影は先程手に入れた石を日にかざした。
それは、先程湖を染めた色と同じ色の石であった。
「これが『blood stone』か…。…さして美しくもないな……」
いささかつまらなそうに呟くと、それでも飛影はそれを大事にしまい込んだ。
「さてと」
起き上がり、服を羽織る。
少々寒かったが、火を出す時間も惜しかった。
まぁ、走ってるうちに少しはマシになるだろう。
パンッと軽く服をはたいて飛影が走り出す。
体より早く心は駆け抜け、すでに意識は人間界にある至高の宝玉の元に、あった。


 シュッ!

風を切り裂く音に、ハッとして身を翻す。
刃は髪の一房を切っただけで、実害はなかった。
「誰だ!」
答は期待せずに、誰何する。
物思いに耽っていたせいとはいえ不意を付かれた事に、自然口調が荒くなる。
「誰でもいいでしょう?その石をお渡しなさいな」
予想通りの、返答。
当然、頷いてやる義理はない。
「生憎だが、これは大切なものでな…見ず知らずの相手にくれてやる程、俺は優しくない」
「そう?でもね、私は欲しいのよ」
そう言って、女が斬りかかって来る。
勝手な言い草だった。
「欲しかったらお前も取ってくればいいだろう?これを俺が持ってる事を知っているという事は、お前もあそこに居て見ていたという事…不可能ではあるまい」
「生憎と、泳ぎは苦手でね」
そう言って、更に斬りかかって来る。
女の動きは洗練されてはいなかったが、疲れたこの身では苦戦を強いられた。

 シュッ!

一瞬、時が止まる。
「しまっ……」
石が、宙に舞う。
ほとんど何も考えずに、反射的に手を伸ばした。
そこへ、再び刃が襲う。

パキ、ン

乾いた音と共に、それは二つに砕けた。
一つは飛影の方へ、一つは女の方へと、弾き飛ばされる。
近い方の石を取ってから急いで降り返ると、すでに女はもう一方の石を手にして逃げ去るところだった。
「待て!」
言ってはみるものの、待つわけがない。
今から追いかけても、無理だろう。
それに、と石を見て思う。
例え石を取り返したとしても、それはもう意味を為さないのだ。
舌打ちする。
「何をやってるんだか……」
けれど、立ち止まっていても仕方がない。
ギリッと唇を噛むと、今度こそ石を大事に抱えて走り出した。



「飛影」
飛影の姿を認めた途端、蔵馬がにっこりと嬉しそうに微笑む。
愛しい…宝玉。
そっと引き寄せ、口付ける。
蔵馬の顔が、ほんのりと赤く染まった。
「蔵馬…手を出せ」
「…?」
言われた通りに、蔵馬が手を出す。
飛影はその手に、欠けてしまった石をそっと置いた。
「血玉髄だ…確かお前の誕生石だっただろう?」
「!!! 覚えてて…くれたの? 嬉しい……」
心底嬉しいといった体で、蔵馬が陶然と呟く。
「この色…もしかしてあの池から? 大変だったでしょう?」
「そうでもないさ…お前はヴァレンタインデーとやらには、わざわざ魔界まで来てくれたからな…ホワイトデーにはそれ相応の物を用意したいと思ったまでだ。 欠けてしまったけどな」
「プレゼントなんか無くってもいいよ…飛影が来てくれるなら、それが最高のプレゼントだもの」
顔を赤くして、それでもはっきりと蔵馬が告げる。
それがとても愛おしくて…飛影はそっと口付けた。
「ね、飛影…お願い、来て……」
飛影が微笑み、それに応える。
それはいつもの皮肉気なそれではなく、優しいそれ。
「俺にとっては…お前が最高のプレゼントだ」
そう言って、深く口付ける。

恋人達に甘い夜が訪れようとして、いた……