夏の花

 その日。躯は寝室のテーブルの上に置かれていた紙を見て……驚愕に凍り付いた。

   『躯さんへ

    飛影を攫わせて頂きますね
    用が済んだらお返ししますのでご安心を

           蔵馬』

 一瞬の沈黙の後。
「ひひひひ飛影が攫われた〜〜〜〜〜!!!!!?????」
 哀れであったのは、その朝躯の部屋を訪れる事になっていた妖怪だろう。

 話は少し遡る。
「何の用だ」
「人攫い♪」
 思わず内容を疑ってしまうような極上の笑みで、蔵馬は言った。
 が、もちろん飛影は雰囲気に惑わされるような性格ではない。
「ふざけるな」
「もちろん、ふざけてなんかいないさ。本気だよ?」
「とにかく俺はいかんぞ」
「まあまあ。もう躯には置き手紙を残してきたから、さ」
 飛影は何となく嫌な予感を覚えた――もちろんこれはありがたくない事に的中したりする。
「という訳でレッツゴー♪」
「何がという訳でだーーー!!!」
 叫びは虚しく魔界の森へと消えた・・・・・・言うなれば森は蔵馬の天下である。
 縄だろうが鞭だろうが檻だろうが、瞬時に作り出せる蔵馬にとって、森は格好の狩場であると言えよう。
 尤も、そこが海や街中であったとしても、蔵馬が獲物を逃がすとは考えられないが。

「こんなところに何の用だ」
 不機嫌な表情で問う飛影。
 理由も知らされぬまま、いきなり連れてこられた身としては、まあ当然の反応であろう。
 理由を知らされていたとしても、機嫌がいいかは怪しいが……
「ここ自体には用はないよ。高いところならどこでも良かったんだ」
 病院の屋上に昇り――もちろん外からである――言う蔵馬。
 確かにどこでも良かったらしいが…不法侵入ではあるまいか。
「?」
「ほら、見て」
 言われて仕方なしに蔵馬の示す方を見た飛影の視線の先で。
 花火が、上がった。
「たーまやー」
 ぱっと咲き誇る大輪の、花に。
 飛影は不覚にも、一瞬目を奪われた。
「何だ…これは」
「花火、だよ。夏の風物詩の一つ。尤も、ある地方では冬の湖畔でもやるそうだけどね」
「たまや、というのは?」
「元々は、花火師の屋号だよ。万治2(1659)年、葦の茎に火薬を詰めた花火を考案し、売り出した花火師がいた。その花火師の屋号が、鍵屋。玉屋ってのは、その鍵屋の7代目で分家した花火師の屋号だよ。両店は両国橋をはさんで技を競い合ってね。そこから「玉屋!」とか「鍵屋!」って掛け声がきてるんだよ。じきに玉屋は将軍が東照宮に参拝する前日に出火してしまって廃業となってしまい、ライバル争いは一代で終わってしまった訳なんだけど、よほど印象が強かったんだろうね、掛け声だけは今でも残ってるんだから」
 蔵馬の説明は、途中から耳に入ってはいなかった。
 初めて見る、花火。
 綺麗で、騒々しくて……
 それは確かに、火の花と言うのに相応しかった。
 二人はしばらくの間、言葉もなく花火を楽しんだ。
 蔵馬は普通の花火の色彩を楽しんでいたが、飛影は変わった花火の形を楽しんでいた。
 リボンのような形をした物、土星のような物、楕円がいくつも重なった物、それぞれ色の違う小さな花がいくつか同時に上がった物、次々に色の変わる物、上がった後星の様にキラキラと光る物……
「綺麗でしょ?昔から、多くの人達が花火に魅せられてきた。今の様に花火用の特殊な紙が開発される前は、上質な和紙を使用した古文書が大量に使われていたそうだよ。そのため歴史学者に、襖の裏貼りに使えば後で読めるのに、花火に使うと永久に読めない!と叱られた事もあったとか。それでも人々は花火を欲した。花火は新素材・新技術を貪欲に取り入れてきたため、今ではこんなに華やかだけど、昔は小さな暗い色の花火が間遠にポーンと上がる程度だったんだよ」
「…五月蝿いだけだ」
 応えに、蔵馬はクスリと笑った。
「綺麗だよ…そして貴方もね」
「え?」
 無言で微笑む蔵馬の後で、大輪の花が咲く。
 騒々しい音を伴って。
「好きだよ…飛影」
 蔵馬の言葉は、花の艶やかに咲き誇る産声に、掻き消された。
「蔵馬…?今、何て……」
 蔵馬は、答えない。
 ただ、悪戯っぽく、それでいて少し困ったような笑みだけを、浮かべていた。
 花が、咲く。大輪の花が。
 艶やかに舞う、夏の娘達。
 視界が、音が、奪われて…世界が回る。
 感じられたのは。
 少しだけ切ない、夏花の薫りだけ……

end