神の花嫁

『神の花嫁』
 それは国を興した始祖が神と契約した、50年に一度生まれる聖双子の事である。
 額に第三の目を抱くものは神の国へ迎えられ、かの地で精神界より国を守る。
 今一人の方は巫王となりて、この地で物質界より国を守る。
 神の花嫁、それは神のもたらした奇跡であり、恩恵であり……鎖である。


 ガサリ。
 草を掻き分け、湖畔に向かう。足元から草が無くなった事を認めると、ゆっくりと顔を上げた。湖のみが目に映る事を予想して。
 けれど。
 そこには…誰もいないと思っていたそこには、黒髪の小柄な少年が、いた。
 体が凍りつく。驚きによって、ではない。魅了されていた、と言った方が相応しいだろう。
 少年はただ静かに湖の中佇んでいた。その瞳は湖面に向けられていたが、見てはいなさそうだった。
 ふいに少年が降り返り…視線があった。
「…っ!」
 息を飲む。
 何て……
 その瞳は。恐ろしいほどに深く、静かで。それでいて、激しく胸を騒がせるのだ。
 心臓が高鳴る。驚く事に、少年の額には目があった。それの示す事は。
「神の、花嫁……」
 呆然と…呆然と、無意識のうちに呟く。
 少年は、しばらくジ、と訝しげに見つめていたが、やがて興味を失ったらしく、ふいっと目を背けた。
「あ……」
 何かを言おうとするが、言葉はでない。
 何か言わなければ……
 それは、予感。この期を逃せば、きっともう2度とこの少年には会えない。そんな不安にも似た焦燥。
 必死で声を紡ごうとして、オレは少年を呼ぶべき名を知らない事に気付いた。
「貴方、名前は?」
「…さっき貴様が『神の花嫁』と呼んでいただろう」
「それは名前じゃないでしょう?」
「それ以外に名などない」
 言われて気付く。邪眼を持つ方の神の花嫁とは、贄の事。生まれる前より死を与えられた者に名がないのも、道理である。死者に名はいらないのだから。
 胸が、微かに痛む。
「じゃあ…オレがつけてあげる。…飛影なんて、どう?」
 光のみの世界に有っても、闇のみの世界に有っても、在れぬもの。両者の混在する現世においてのみ、在れる闇――影。
 飛影はこの国の闇――病み――だ。すぐに飛び去らせられる。
「…勝手にしろ」
「うん、じゃあ、勝手にするね」
 にっこりと笑って、言う。
「…おかしな奴だな」
「そう?」
 言うと飛影はちらりと視線だけ向けたが、すぐに顔を背けた。
「おかしな…やつだ」
 呟くと飛影は、湖より上がり、服を着始めた。
「…名を聞いておいてやる」
「蔵馬、だよ」
 努めて笑顔で言ったのだが、飛影はそれ以上は何も言わず、降り返りもせずに立ち去った。

「また貴様か」
 翌日再会した飛影の第一声は、それだった。
「折角会いに来たってのに、つれないなあ」
「貴様が勝手に来ただけだろう」
「貴様じゃなくて蔵馬って呼んでくれると嬉しいんだけど」
「貴様で充分だ」
「じゃあ何のために名前を聞いたのさ」
「貴様が俺の名を知ってるのに、俺は貴様の名を知らんというのが気にくわなかっただけだ」
「へえ?飛影って名を認めてくれたんだ」
「〜〜〜」
 飛影の顔に朱が走る。どうやら負けず嫌いな性格らしい、言葉を探しているようだった。
「それよりさ、飛影に土産を持ってきたんだど」
「土産?」
「そ。折角だからクッキーを焼いてきたんだ。食べた事ないでしょう?」
 飛影は答えなかったが、表情から察するに、どうやら興味を覚えたらしい。
「食べる?」
「…食べてやってもいい」
 思わず笑いそうになるのを、必死で堪える。くすり、とでも洩らしたら最後、機嫌を損ねるのは明らかだった。
「じゃ、どうぞ」
 怪訝そうにオレの顔を見ながらも、それでもクッキーの匂いに誘われたらしい、すぐさま食べ始めた。
「おいしい?」
「…不味くはないな」
「ふうん?」
「…何だ」
「別に。気に入ったならまた持ってきてあげようかと思ってたんだけど、飛影はあまり気に入らなかったようだね」
 飛影が慌てた顔になるのに、くすりと笑う。
「ま、お菓子はこれだけじゃないからね。飛影が望むなら、毎日違うのを持ってきてあげるよ。飛影の好みにあうのが見つかるまでね」
 飛影がほっとした表情になる。が、それは次の瞬間不思議そうなそれに変わった。
「…貴様は、何故そんな事をする?」
「さあ?多分したいからするだけだよ。オレは自分の欲望には素直だからね、誰かさんと違って」
「…誰の事を言ってる」
「さあ?」
 憮然とした表情の飛影に、くすくすと笑う。
「……飛影が望む事は、何でもしてあげるよ。お菓子にジュースも持ってきてあげる。そして、色々な事を教えてあげるよ。面白い遊びや不思議な話、可愛い動物の事……飛影が望むならね」
 静かに言うと飛影は、顔を覗き込んできた。
「…本当か?」
「もちろん」
 にっこりと笑って、答えた。

 それから蔵馬たちは毎日のように湖畔で遊んだ。そこは聖湖として人は滅多に近寄らないため、格好の遊び場だった。
 蔵馬は約束通り毎日違う菓子を持っていき、色々な話をし、遊んだ。飛影は未だに菓子を美味しいとは言わなかったため、今日は何にしようかと悩むのも蔵馬の楽しい日課の一つだった。
 けれど、蔵馬は知っていた。それが束の間の幸せである事を。飛影は神の花嫁――いつまでもこうしていられる訳ではない。だからこそ蔵馬は飛影ができるだけ楽しめるよう心を配り、だからこそ余計に蔵馬は飛影と判れた後陰鬱な気持ちに襲われるのだった。

「5日後だそうだ、嫁ぐ日は」
 唐突に、飛影は言った。
「明日から清めに入る。もう、今までのように抜け出せない」
 それは、別れの意――永遠の。
「そう……」
 そっと、呟く。覚悟していたとはいえ、胸が痛むのは仕方なかった。
「飛影は…それでいいの?」
「いいも何も、始めより決められていた事だ」
「そうじゃなくて、貴方の意思。貴方は、神の花嫁となる事をどう思ってるの?」
「神殿の奴らは、神に嫁げば幸せになれると言った。そうする事がいい事なのだと」
 胸に。痛みが走る。
 この子は…何も知ってはいないのだ。
 幸せのかたちも、神に嫁ぐという事の意味も…何も。知らないままに、しきたりの上を歩かせられている。
 守りたい、と思った。それは、初めて会った時から決意していた事。
 あの時、飛影は。今にも空に溶け込みそうに見えた。儚げで、淋しげで……オレはきっとこの子を守るために生まれたのだと、思えたのだった。
「飛影。貴方が望むなら、オレは貴方を連れて逃げる事ができるよ。オレは、貴方が愛しい…離れたくはない」
「…雪菜がいる。会った事もない妹だが……オレが逃げれば、あれは辛い想いをするのだろう。あれを悲しませたくはない」
 淡々と、飛影は言った。
「飛影……けれどオレは貴方を失うのが辛い。それに、きっと雪菜ちゃんも悲しむ」
「……」
 飛影は応えず、ただ怒ったような顔を湖に向けた。
「飛影……」
 ギュッと、抱きつく。やっぱり飛影は何も応えなかった。

 その夜、オレは神殿に忍び込んだ。騒ぎにならないよう、結界を張ってから。
「雪菜ちゃん…雪菜ちゃん……」
 そっと、起こす。目的の少女は、色白で美しい少女だった。
「貴方は……?」
「オレは、蔵馬。君の兄を助けたくて、会いに来た」
 そしてオレは語り始めた。湖で飛影に会った事、飛影を助けたいが飛影に逃げる意思がない事、その理由など。
 雪菜は思ったよりも聡明で、突然の来訪にも騒ぎ立てる事なく冷静に話を聞いてくれた。
「それで、貴方は私をここから連れ出そうと?」
「雪菜ちゃんが良ければ、だけど…どう?」
「私が逃げれば騒ぎになります。それに、逃げたいとも思いません。私はこの神殿しか知りませんし、愛しい人もいます。兄には…私から言う事にしましょう」
 言って雪菜はつと、と真っ直ぐに見つめてきた。
「綺麗なオーラ…蔵馬さんは優しいのですね。私は兄が会ったのが貴方で良かったと思います」
 言って雪菜はにっこりと微笑んだ。

 嫁ぐ日が、やってきた。
 巫女たちは、手早く着替えをすませていく。巫女達は終始無言だった。儀式のせいではない。彼女らはいつも必要以上の事は何も言わなかった。
 …蔵馬だけ、だったな……
 俺を俺として見てくれたのは。
 巫女達は食事を作る時に俺の好みを考えた事などなかった。もちろんおやつの類など全くなかった。本を読んでくれた事もない。何かを教えてくれた事も。
 蔵馬だけが。話してくれて、遊んでくれて、美味しいお菓子を作ってくれて。名も、くれた。
 …蔵馬……
 蔵馬はどうしてるのだろう?巫女達は、何も答えてはくれなかった。
 …会いたい。
 何故か、無性に。蔵馬に会いたかった。
 着飾られ重い衣で、聖湖に向かう。神を待つ間も、脳裏から紅い影が消える事はなかった。
 ……っ!
 空間が、揺らいだ。歪みは次第に大きくなり…そして次元の扉が開かれる。
「貴様が、神か?」
「そう、コエンマという」
 言ってコエンマは微笑んだ。蔵馬の少しからかうような笑みとは違うそれ……
「手を」
 言ってコエンマが手を伸ばす。それにゆっくりと応えた。
 …この手を取ってしまえば、もう……
 平気だったはずが、何故か一瞬躊躇し、その事に驚く。
「飛影!!!」
「蔵馬!?」
 蔵馬が、走ってくる。何故蔵馬がここにいるのかと、驚きを覚える。
 兵らが、慌てて蔵馬に向かう。蔵馬は術によって抗うが、一対一では蔵馬に敵わぬとはいえ、それでも数いるとなると容易くはなかった。
「飛影!」
 蔵馬が、叫ぶ。
「あ……」
 行きたい、と思う。けれど……
「行ってください、兄様」
 背後から聞こえて来た声に振り向くと、一人の少女がいた。
 雪菜だと、判った。兄様と彼女が口にしたからではなく、本能が告げている。
「私は大丈夫です。兄様が、私や国のために犠牲になる事はありません」
「雪菜!貴様逆らう気か!?」
 神官が、雪菜に向かってくる。反射的にかばおうとして雪菜の前に出た。
「氷壁!」
「うわぁっ」
「雪菜!?」
「私だって『神の花嫁』です。自分の身を守る事ぐらいできます」
 言って雪菜はにっこりと微笑んだ。
「行ってください、兄様」
「だが雪菜、お前は……」
「私は、巫女としての生き方しか知りません。それに私は逃げてどうしたいという事もないし、近衛兵に私を好いてくれてる人もいます。けど兄様は違う。きっとあの人となら幸せになれる事でしょう」
 雪菜が何故蔵馬を知ってるのかとか思いもしたけれど。それらはどうでもいい事に思えた。
 雪菜は…俺がいなくても大丈夫なのだ。
 きっと、このまま神に嫁ぐより蔵馬と行った方がいいのだろう。雪菜にとっても、蔵馬にとっても…そして俺にとっても。
「飛影!来い!」
 蔵馬が、呼ぶ。考えるよりも先に体が動いた。
 あれは、誰の声だ?きっと誰よりも愛しい人の、それ。
 身体が、心が、魂が…その手に引き寄せられる。
「蔵馬!」
 蔵馬に向かい、手を伸ばす。俺が本当に取りたかった手に向かって。
 その腕に抱きとめられて。胸が熱くなるのを覚えた。
「蔵馬、貴様!」
「よい」
 神官の言葉に対し、コエンマが意外な事に止めた。
「飛影、その男と在るが良いか?」
 コクリと頷く。
 そして。蔵馬と共に走り出す。
 追っ手の気配は…何故か無かった。

「あの男が…好き、か」
「よろしかったのですか?コエンマ様。あのまま行かせて」
「ああ」
 応えると、男は微かな落胆の光を瞳に乗せた。
「心配するな。雪菜には、ちゃんと巫王としての力は与える。今回の事は、ワシが勝手にした事だ」
 安心させるように、言ってやる。そうしなければ雪菜の安全は保障されないだろうから。
「ワシはあれを幾度か娶ったが、あれは一度としてワシを見なんだ。あれが人間としても短過ぎる寿命を終えて逃げるようにこの地に戻ってきていたのは…或いは蔵馬に逢うためだったのやも知れんな」
 昔、あれと初めて会った時、あれは女だった。初めて目にした時からどうしようもなく恋しくて。
 請いて請いて…とうとう娶るに至った。
 人間であるためあれも寿命という名の鎖に捕われていて。それでも忘れる事はできず…あれの残した子と契約した。
 荒れた土地を実り豊かな土地に変え、国を興させ、国の永遠の繁栄を約束した。
 あれの生まれ変わりをワシが娶る事を代わりに。
 だが。
 あれの生まれ変わりは…一度もワシを愛してはくれなかった。
 優しくはしてくれた。けれど……
 あれの生まれ変わりは結局あれではないのだから、当然とも言えたが。
 ふう、とため息をつく。
「あれは…幸せだったろうか?」
 応えは、無かった。

「蔵馬」
「何?」
「いいのか?こんな事をして。天国とやらに行けなくなってしまうぞ?」
「天国なんてどうでもいいよ。オレはオレだけの楽園を手に入れたのだから」
 言って、にっこりと微笑む。
 一緒に行こう、飛影。
 貴方と一緒ならば。
 何処だって最高の楽園だから。

end